クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

空気のように目に見えない

医者がメディア、ロサンゼルス・タイムズ紙を買収と聞くと、ずいぶん金回りのいい医者もいたもんだと驚くけれど、医師出身の企業家あるいは起業家と聞けば納得。

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ローカル線で見かけた電話ボックス。レトロ過ぎ。

ワンクリックさせるためのテクニックに、今日も見事に引っ掛かりまくり。

 

ロイターは金融データ事業の過半を売却し、報道をテコ入れするとか。ニュースや報道で目にする姿だけでは違いもわからないけれど、メディアのカタチが色々変わるなか、信用に値するメディアはどこかいな?と模索する日々。

 

大勢の人に支持閲覧されているけれど、実はフェイクニュースだった。という事例もままあるから、大勢に支持されているから信頼に足るとも言い切れない。

 

信頼に足るというのも、空気のように目に見えないものだから、信頼を無くしたら立ちゆかない人や組織が支持する人や組織こそが、信頼に足るのかな、と。あぁ見分けるの、とっても難しそう。難しいから、わかりやすく数値化されたものを信じる方が簡単。

 

久しぶりに読んでみるかと思った新書レーベルがあり、本屋で探したけれど、見つからず。そのレーベルから今でも本を出してる人は、平均的な日本人なら必ず名前を知ってそうな大御所ばかりで、もはや大御所しかそのレーベルからは本が出てないようだった。

 

ちなみに読みたかった本は電子書籍化されていないので、取り寄せるしかない。

 

「読みたい時にいつでもポチッ」の輪から外れてしまい、書店からも姿を消してしまったら新規ユーザーの獲得は難しく、古参の信者ばかりになってしまう。まぁこっちも古参なんですけどね。

 

東京よりも変化の乏しい街に住んでいると、環境や景色の変化に鈍感になる。環境が変わればその中身も大いに変わってるはずなので、環境の変化に敏感かつ適応できてる人との差は広がるばかり。

 

環境の変化に合わせる理由が極小だと、キャッチアップしようという意欲も極小。

 

目には見えないけれど、そこに悪意があるのか善意があるのかもすっかり丸わかり。悪意に勝るものは、世の中から隠されるようになってるんでしょ。こっちはボチボチやるだけさ。

 

お休みなさーい。

才能を育てたいというのも欲望の一種、『ギフテッド』を見た

映画には「数学もの」とでも呼びたくなるような、数学者を取り上げた作品、古くは『グッド・ウィル・ハンティング』から『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』に『ビューティフル・マインド』と色々あるけれど、『ギフテッド』も数学ものと呼べるかも。

 

ただしヒロインはとっても可愛くてあどけない女の子で、数学ものであってもハートウォーミングな家族もの。人並み外れた才能に恵まれた子供を、どう愛するのかを描いてた。

 

早熟な天才をどう育てるのか

あるところに叔父さん、亡き母親の弟と暮らす女の子メアリーが居まして、彼女が小学校(エレメンタリースクール)に進学するところからお話はスタート。

 

協調性ナシ、授業でもやる気ナシでとっても学校生活に向いてないメアリーは、実は数学の才能に恵まれた天才児。普通の子供ではないと見抜いたメアリーの担任は、天才児向けに特別教育を施す学校をメアリーの保護者であるフランクに薦めるけれど、フランクは乗り気じゃない。

 

フランクがメアリーに望むことは、普通の子としての生活。

 

とはいえメアリーは、ほっとけば終日小難しい数学の本にかじりついているような子で、普通の子への道もなかなか厳しい。でも仲良しの叔父さんの前で見せる、子供らしいあどけない仕草がとっても可愛いんだ。そのうち疎遠なはずのメアリーの祖母(何しろメアリーは、彼女に会ったことさえない)まで現れて、メアリーの教育方針をめぐってフランクと対立。

 

天才児メアリー、どうなっちゃうの?というストーリ―で、常人にはない才能に恵まれた子供を、どのように育てるのが本人にとってもっとも幸せなのかを丁寧に描くあたり、才能を本気で大事にするお国柄らしいっちゃらしい。

 

才能を育てたいというのも欲望の一種

メアリーの祖母は、メアリーの天賦の才を最大限に伸ばそうと、やる気満々。対するフランクは、才能を伸ばすことよりも、メアリーに子供らしい普通の生活を送らせる気満々で、二人の教育方針はすれ違う。

 

メアリーは大人顔負けの難問を次々と解いていくけれど、その世界を志すものにとっては解けて当たり前のもので、いわば通過儀礼。フランクが見ているのは通過儀礼の先に待つ世界で、メアリーにとっての本当の壁は、学位を得たあとにやってくることを彼は知っている。メアリーに期待されているのは、前人未到という高い壁を乗り越えることなんだから。

 

才能の片鱗を見せたら嬉々として乗り込んでくる女性に育てられたのは、フランクとその姉(=メアリーの母)であるダイアンの方が先。その彼らが、メアリーには普通の生活「も」知って欲しいと望むのに、英才教育の第一世代である彼らの母親にはなかなか通じない。

 

メアリーの親権をめぐっての裁判で、0勝2敗と皮肉られた挫折経験が、祖母のメアリーに対する執着に拍車をかけているのは間違いなし。

 

才能を育てたい、次こそは我が手で才能を開花させたいという欲望は、たぶん度し難い欲望のひとつで、才能を育てたいというエゴを爆発させるのはたいていジーサンバーサン。しかも彼らの方が、お金も権力も持ってるから大問題。メアリーに対する愛情では勝っていても、フランクには不利なんだ。

 

一生を捧げるのか、一身で二生を生きるのか

メアリーの祖母はメアリーに、生涯をかけて数学の道を究めることの素晴らしさを説き、共に歩む仲間の素晴らしさも説くけれど、最先端では結局ひとりで孤独が待っていることはすっ飛ばす。

 

メアリーの母ダイアンは、一生を研究に捧げ、二生を生きることなくその生涯を閉じた。

 

フランクやダイアンがメアリーに普通の生活を望むのは、一身で二生も三生も生きられるよう願ってるからと言えるかも。かもかも。

 

非凡な人生を子供に望む親や保護者は往々にして、平凡な人生を歩んでるものなんだ。

 

非凡な人生を歩んだ、あるいは歩まされたフランクやダイアンは、一身で二生を生きるのに失敗したかうまくいってない人。だからこそ平凡な人生の尊さを知っていて、メアリーの人生の選択肢を増やそうとする。普通の子として育てることで。

 

フランクは才能を育てているわけではなく、ただメアリーという可愛い姪を育てているだけ。メアリーも、素晴らしい才能の器として愛されてるわけではないと知ってるから、フランクの前ではだらしなく伸びたり飛び跳ねたり。無邪気な子供の面を露わにする。

 

メアリーの子供らしい可愛らしさが強調されているのは、彼女は単なる才能の器、入れ物じゃないことを強調してるよう。才能もその入れ物も同時に育てていかないと、どちらかがどちらかを凌駕した時バランスが崩れ、人としては不完全になるかもしれない先例が、数学というジャンルには多過ぎる。

 

ついでにダイアンは、世界で最も優秀と言ってもいい人で、その人が一身で二生も三生も生きる方がいいと答えを出してるんだから、才能に惹かれてしゃしゃり出てきたババアの出る幕じゃない。念のため、作中ではそんな下品なことばは使われておりません。

 

非凡な人生を掴み損ねた人ほど、平凡な人生を否定しがち。才能をめぐっての悲喜劇を、幾多も見てきたお国らしさ満点だった。子役を演じたマッケナ・グレイスが、とにかく可愛いくて、いい。

イワシの目に柊

イワシの目に柊を刺したもの、「柊鰯」は節分のお飾り。と、知識では知っていても、スーパーで大々的に売られているのは今年初めて見た。観測範囲の問題かもしれないけれど。

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ボランティアとは攻撃を受けやすくなる行為と何かの本で読んだけれど、体感としてもだいたい合っている。

 

勝手に広告が表示されるのがイヤで、有料コースでブログを書いているけれど、有料でも無料でも誰に頼まれずともブログを書く行為は、ボランティアではなかろ。単なる表現行為の一環さ。単なる表現行為の一環だから、気が向いた時に好きなように書くだけ。

 

一年でもっとも出不精になるシーズンだから、本を読んだり動画配信サービスで映画を見たりと、文化系活動がはかどってしょうがない。雪を見ながらの温泉もいいけれど、温泉地にとっては繁忙期でもあるから、予約も取りづらい。必然的に、ご近所をぐーるぐるの日々。

 

大通公園では雪まつりの準備も進み、春節シーズンが始まったとはいえ、外国人観光客の大群に、圧倒されることもなし。

 

『トールマン』『マージン・コール』『ダウト~あるカトリック学校で~』『ムッソリーニとお茶を』が、ここ最近見た映画でよかったもの。動画配信サービスのおかげで、毎日映画を見ることも可能になったけれど、やり過ぎると嬉しい楽しい悲しいといった感情が摩耗するから、見過ぎるのはほどほどにしたいところ。

 

マイナーで情報の少ない作品ほど、アタリが多い気がするこれは個人の感想です。

 

趣味が偏っているのは自覚しているから、これではいかんとメジャーどころ、007シリーズなんてものにも手を出してみたけれど、やっぱり全然ダメだった。面白いという回路が、全く開かない。

 

例えていうなら甘いものが苦手な人が、砂糖10個入りの激甘コーヒーと生クリームたっぷりの激甘チョコレートケーキをほれ食べんかいと強要され、その口直しに羊羹を薦められてるような心境で、苦行。

 

向き不向きはあるもので、メジャーな作品すべてがダメというわけではないけれど、日本では劇場未公開の作品ほど、面白く感じる。

 

マージン・コール』は、嵐の前夜に個人の中に吹き荒れる感情の嵐や葛藤を描いていて、よかった。こういう地味な作品は、どう考えても劇場公開は無理でしょう。劇場未公開の作品だって見れるようになったんだから、裾野はかつてないほど広くなって、それはきっと喜ばしいこと。

 

お休みなさーい。

小樽御殿めぐり

小樽といえば、レトロな歴史的建造物が多く残された場所。

 

運河近くのレトロな建物群からは「北のウォール街」の名残りを感じることができるけれど、小樽には海産物で財をなした、鰊御殿と呼ばれる建物群もある。たいていは高台など街中からはちょいと外れた場所にある鰊御殿。行ってきたのはだいたい去年2017年だけど、今さらながら振り返ってみる。

小樽銀鱗荘

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小樽銀鱗荘の玄関

小樽でも屈指の景勝地、平磯岬の見晴らしのいい高台に建つ銀鱗荘は、もともとは余市の大そう羽振りのいい網元のお屋敷だったとか。現在は、料亭で料理旅館になっている。料理旅館の隣にはグリル銀鱗荘があり、そちらもわりとお高い感じのフレンチレストラン。

 

庭、そして庭をのぞむ室内からは日本海が見える。きれいねー。

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庭の向こうに見えるあれは、日本海

眺めのいい場所をひとりじめできるのは、いつの時代も変わらぬ贅沢。眺めがいいだけでなく室内の意匠も凝っていて、たかが鰊されど鰊で、海産物でこれだけのお屋敷が立ったのかと思うと、感慨深い。網元も、まぎれもなく一種の資本家なんだよなぁ。

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落ち着いて食事ができる料理屋さんを探していて、銀鱗荘に行き着いた。

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お寺以外でこんなに広い畳の大広間、まず見ることはない。さすが「御殿」。

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静かだし、食事はたんぱく質多目だけど確実に美味しいし、誰かをおもてなししたい時にぴったり。4人での会食なのに、めちゃくちゃ広いお部屋に通された。また通された部屋の意匠が凝っていて、古い建物や意匠を見るのが好きな人にはたまらない。

 

どれも美味しかったお食事のなかでも、特に美味しかったのが、バター餡(あん)がかかったじゃがいも。バター飴味の餡がめちゃウマだった。北海道らしい一品でもあり、この一品のおかげでお料理全体に対する評価も5割増しになる。

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以前は冬季は休業してたそうだけど、今では通年営業とか。行ったのは夏だけど、冬景色もきっと絵になる、インスタ映えしそうな場所。宿泊もできるので、古風な和風建築に泊まってみたい趣味の人にオススメ。

小樽貴賓館と小樽市鰊御殿

「小樽」「鰊御殿」で検索すると、まったく性格の違う二つの施設が出てくるので、初めて行く場合はとまどってしまう。

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にしん御殿小樽貴賓館(旧青山別邸)は、初夏に咲く牡丹や芍薬の名所としても有名。ついでに、お金に糸目をつけずに集めた、あんまり趣味がいいとはいえない美術品がてんこもりで、お腹いっぱいになれる。見せ方って大事。キンキラキン過ぎると、せっかくの美術品もなんだか安っぽく見えてしまう。

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御殿じゃなくて、番屋。

小樽貴賓館からも車でそう遠くない、小樽市鰊御殿を、御殿と呼ぶのは誇大広告になりませんかねぇ。これ、ただの番屋でしょ。

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広々とした二階。
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密入国ポイント???

とはいえ、当時は積丹半島では有数の親方(網元とはまた違うのか???)として知られた人の番屋だそうで、往時の番屋の暮らしがしのべる場所。網を引く労働者の居住環境が、劣悪過ぎてドン引きした。しかも雇用主家族とは同居スタイルで、現在とはあらゆる意味で常識が違った貴重な歴史を伝えるものであることは、間違いなし。

小樽海宝樓

 観光客でいっぱいの、小樽堺町通り商店街から近いようでちょっと歩く、小高い丘の上にあるのが、海運で財をなした旧板谷邸のお屋敷小樽海宝樓。現在は、レストランやプチホテルを併設している。

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旧館に隣接した、真新しい建物がホテルとしてオープンしたのは2017年の10月。口コミサイトにはまだ一件の書き込みもない時に、出来たばかりのホテルに泊まってきた。

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口コミ一件もなし。われながら、チャレンジング。

いちばん狭い部屋でも45平米はある部屋は、リビングにベッドルーム、そして室内風呂までついた、ホテルというよりサービスアパートメントのような造り。

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向かいに見えるのは、マンションだ。
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スタイリッシュでどこもかしこも出来立てだからピカピカ。アメニティも、ちょっと高級な感じでステキなんだけど、なにしろ人の気配がしないホテルだった。ルームサービスもなければ自動販売機もなく、備え付けの冷蔵庫には水など飲み物のストックもなく、夜中に喉が渇いたらどうしようかと、わりと途方に暮れた。外は大雪で、周囲も住宅街。

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小樽市街の夜景

小高い丘にあるだけあって、街中の夜景が楽しめるのは確かなんだけど、大浴場は客室ほどではないけどホテルと隣接するマンションのベランダに面していて、気が気でないこと夥しかった。どうしてこんな建て方をするんだろう???と、邪推が次から次へと沸いてきましたよ。

 

ウェルカムスイーツは、花畑牧場のお菓子。商売っ気にはえらく乏しげだったので、税金対策パラダイスペーパー案件かと思いながら、寛いで過ごした。置き畳、快適―。

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旧館からホテルへと続く廊下。

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タクシーの運転手さんは、「お屋敷っていうか、まぁ古い家だな」とか言ってたけれど、それなりに趣のある本館で朝食を食べた。料理長のお名前は“佐藤淳”。もしかすると、星野リゾートトマム店と兼務なのかも。

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レストランは洋室でクラシカルな雰囲気。

海宝樓のある東雲町には、他にも古いお屋敷っぽい由緒ありげな何かがあったので、東雲町そのものが昔はお屋敷町だったのかも。現在はマンションが目立つ、フツーの住宅街なんだけどさ。歴史的建造物の保存と都市開発と。両立させるのは、そう簡単にはいかないやね。

 

小樽には大人が満足できる場所が少ない

 数え切れないほど小樽には来てるけど、再訪してる理由はただ「札幌から近い」から。

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高速を使えば1時間ほど。ニセコもいいけれど、冬季となると高速も使えず中山峠を越えるのは、雪道の運転に不安があるものにとっては、ちと荷が重い。なんなら電車でも来れる小樽は、ちょっと遠出したい時にはぴったりなんだけど、お金使いたいような場所がないのがネック。

 

電車で来れるから、外国人観光客をのぞけばもっとも日本人観光客の多い、小樽堺町通り商店街は、若い人の姿が目立つ。勢い、一見でも入れそうなお店はリーズナブルなお店ばかり。せっかく札幌というそれなりの都市に近いのに、もったいないなぁという思いが募る。

 

北一ホール、一度入ってみたいと思っていたけれど、入り口で回れ右してしまった。レトロ喫茶の「光」は許容できるけど、北一ホールは過剰過ぎてダメだった。タイミングが合わなくて入りそびれたけど、「くぼ屋」はよさげな雰囲気だったので、次の機会に行ってみよう。周りは著名な北海道スイーツのお店ばかり。和カフェはかえって新鮮さ。

 

堺町通り商店街を先日初めて歩いた(いつもは車で通り過ぎるだけ)けど、景観に厳しくなる以前の由布院みたいで、ごちゃごちゃ。ついでにルタオ多すぎ。ってか、ルタオ以外のお店が少なすぎ。富良野みたいに、わざわざ食べに来たくなるようなお店が、もっと増えればいいのにと思った。

 

電車で来れられて歩いて回れる街だから、外国人観光客も今は来てくれるけど、彼らが二度三度来てくれるのかというと、ちょっと疑問。台湾も中国もきっとタイやシンガポールも、都市居住者はすでに自国で洗練されたお店、たくさん見てるでしょ。

 

そぞろ歩きする人が多く、そぞろ歩きを楽しむ人向けにカジュアルな食べ物を扱うお店が目立つけど、安きに流れるとレベルも低くなって、お金落としてもいいと思ってる層から離れていきそ。

 

ホテルノイシュロス小樽

 小樽市鰊御殿は、祝津というエリアの小高い場所にあるけれど、その小樽市鰊御殿を眼下に見下ろす、ニセコ積丹小樽海岸国定公園内にあるのが、ホテルノイシュロス小樽。

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日本海の絶壁に建つホテル、眺め抜群。

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以前もホテルだった建物を、2000年代の始めに改装、オープンしたとか。内装はやや重厚なヨーロピアン風。てっぺんのリング状の部分は、昔回転レストラン、今はスイートルームなんだってさ。

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平成もそろそろおしまいになろうとする現在、この手のクラシカルかつヨーロピアンな内装のホテルは、もうわざわざ作ることはないんじゃないかと思われる。そういう意味で貴重。あと何年か踏ん張ったら、道内に残る希少なクラシカルホテルとして名を残せそうとか思うんだけど、どうなんすかね。

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窓の外には雪景色が広がる。

全部屋露天風呂付き。

 

この露天風呂が、たーいへん気持ちいい。居室がゆったりとしてるので、ほんとは長期滞在向きなんだけど、車がないと移動できないのが厳しいところ。

 

レストランは、今時めずらしくフレンチオンリー。バイキングにはしたくないという、ポリシーがあるとか。お持ち帰りもできる、バゲットがめちゃめちゃ美味しかった。ついでに、ちょっと珍しいジンジャーエールも美味しかった。

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こういうありがちなもので予想しないものが出てくると、好印象。お箸でも食べられるフレンチも、十分に美味しかった。

 

雪景色もいいけれど、季節を変えて、海の青と空の青が楽しめる、夏場にもまた来たいと思った。

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日和山灯台

『喜びも悲しみも幾年月』という、古ーい映画のラストシーンにも登場した灯台だとか。絵になる灯台やね。

 

おまけ

新年なので、ウィーンのニューイヤーコンサートをテレビで放送していた。クラシックの調べにのせて、ワルツを踊るイベント。優雅。いかにもウィーンらしい優雅なイベントで、ウィーンの都市といえばモーツァルトでワルツでクラシックでしょという、都市のDNAを伝えてくる。

 

ウィーンの経済において、観光客依存度がどれほどのものか知らないけれど、ウィーンに来る観光客は、モーツァルトザッハトルテでクラシカルな雰囲気を楽しみにくることは多分間違いない。お目当てのものがなかったり、期待したほどでもなかったらガッカリする。

 

都市のDNAを伝える象徴的なアイテムに自覚的だから、今でも新年にワルツ踊ってブラッシュアップしてる。近頃は極右政党も台頭してなんだかキナ臭いウィーンだけど、確固たる文化を確立している都市は、排他的傾向を自覚的に持つものなのかも。

 

確固たる文化が崩れ、ありふれたその辺の都市と大した違いもなくなれば、ウィーンがウィーンである意味も薄れてしまう。

 

都市のDNAを伝える象徴的なアイテムが明快だと、文化も守りやすくていいやね。と、考えたことを存分に綴れるのが、ブログのよいところ。

 

お休みなさーい。

嬉しい楽しいを記録したのが映画の始まり

仕事始めとはいえ、街はまだまだお休みムード。

 

真面目に働くのは週明けからでええやんと言わんばかりの、まったりのんびり気分が漂いまくってると感じたのは、きっと気のせいじゃない。

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栗きんとんをバターたっぷりのトーストに載せ、栗きんとんトーストで〆て、おせち料理にもサヨナラ。1月のレギュラーメニューとして、どこかのカフェにでも置いてくれないかと思う、予想通りの美味しさだった。

 

よく考えたら割といいお値段がする栗きんとんなので、採算面で厳しそう。食べたかったら自分で作る方がきっと早い。真面目に作り置きに励むのも、週明けからにしようそうしようと、こちらものんびりまったり。

 

映画の感想を書くのは、公開が終わってから。と、伸ばし伸ばしにしているうちに、書こうと思った内容さえ忘れつつある『リュミエール!』。

 

どこかの映像資料館で常時上映されていそうな、“映画“の発明者リュミエール兄弟による記録映画を集めたもの。短編映画というよりショートショートと呼びたい108本の動画。

 

最初期の映画、シネマトグラフにはストーリーもなく、ただ街の景色を映したり、面白おかしく見える瞬間を捉えたりといったものばかりで、最初期のYouTubeを眺めているようだった。そのせいか、流れる映像は1895年から1905年にかけてのものと、微塵も親近感は抱けないものなのに、妙に微笑ましく懐かしかった。

 

初めてホームビデオを手にした時。初めて携帯やデジカメで動画を撮った時、何を撮ったかと言えばまずは身近なもので、世界中の誰かにとっての身近な景色や面白おかしいで溢れ返っていたのが初期のYouTube

 

何ができるかもよくわからない、はじめましての道具を手にした時に人類がやろうとすることは、100年経っても変わりゃしないんだなと微笑ましかった。

 

映像記録集といえば『映像の世紀』だけど、あちらはBGMも重々しくテーマも重々しい。『リュミエール!』では、落語家の立川志らくがナレーションを担当し、軽妙なトークに合わせて『映像の世紀』では流れないような、市井の人のありふれた暮らしを映し出す。

 

1895年から1905年のヨーロッパといえば歴史的にはキナ臭く、動乱の時代と呼びたくなるけれど、動乱の時代にだって市井の人の暮らしは続くし、面白おかしいことだって転がってる。

 

後世から見たら、大きな出来事一色に塗り潰されてしまいそうな時代の、そうではない一面を切り取っていて、そうでない一面を敢えて取り上げたのは、同時代の人のためだから。

 

悲観はムードで楽観は意思ということばが好きなんだけど、暗い気分に襲われそうな同時代の人に、明るく面白楽しいというメッセージを届け続けたリュミエール兄弟が資産家、ブルジョワジー階級だったというところもポイント高い。

 

時には自らや家族、友人・知人をモデル(俳優というほど演技してないし。。)に起用し、撮影する場所は自らの会社や自宅や別荘で、上映する映画館も自分たちで用意していたリュミエール兄弟

 

新しい道具やビジネスに対する好奇心以上の、強い動機でもあったのか。そのあたりは作中ではまったく忖度せず、ただ残した作品からその偉業を読み解けという観客まかせのスタイルは、逆に兄弟の人生に対する興味を募らせたかも。

 

映画、あるいは動画のはじまりは、ただうれしい楽しいを記録するものだった。うれしい楽しいをみんなで共有するものだったという単純な事実から、ずいぶん遠くはるかに旅したものよ、という気分も盛り上がりまくった。

 

お休みなさーい。

今年もいらない、大きな物語

新年も3日目、おせち料理も3日目ともなると食べる方も苦行となって、“おせち料理を食べ切る”チャレンジに挑んでる気分になれる。地味なチャレンジは、生活のなかにだって落ちている。

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ローストビーフの残ったタレにはゆで卵を投入して煮卵もどきにし、お雑煮にしても食べ切れない蒲鉾は、油揚げや葱その他を卵でとじてきぬがさ丼にする予定。大量に作った黒豆はおやつ代わりだから、余っても問題なし。

 

年末から用意していたストック食材、だいたいきれいに食べ上げられそうで、もっすごい満足。綿密に立てた食料計画でもないから、棚からボタモチ感が強くて、そのぶん満足感も大きい。

 

象の時間、ネズミの時間というフレーズに出くわしたばかり。

 

同じタイトルの生物学の本もあるけれど、こっちは生産時間=象の時間、消費時間=ネズミの時間という文脈で使われていた。

 

日常的に料理をする人はよくわかっているに違いない、時間をかけて料理をしても、食べ上げるのはあっという間という悲しい事実。7時間かけて用意したから、7時間かけて食べろと言われても無理。

 

準備した時間と、食べ上げる時間が限りなくイコールに近付くほど、生産者と消費者間のもめごとも少なくなり、調理担当者の機嫌がいいと、出てくる料理を待つ専門、食べる方専門の人も、安心して食べられるってもんで、家庭内平和も守られる。

 

ついでに正月くらい休ませろというおせち料理を、日常に持ち込んだのが「作り置き」だよな。生産時間をまとめて取って、少しづつ消費するスタイルでも、象の時間とネズミの時間は限りなくイコールに近付ける。

 

生産時間をゼロにして、買ってくるだけで済ますこともできるけれど、それを許すとエンゲル係数はウナギのぼり。日々日常的に料理する人は、どちらかといえば節約志向のはず。節約志向だから、生産にかかる時間と消費にかかるコストを天秤にかけたら、生産にかかる時間の方を取って、コストは料理以外の分野のためにとっておく。

 

身の丈にあった暮らしで過不足なく生きているっぽく見える、市井の人見て導き出した答えなんですけどね。

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身の丈にあった暮らしで満足できてないように見える人は、サンプルには含まず。

 

生産にかかる時間と消費にかかる時間が限りなくイコールに近付いた、お手軽レシピ本が人気になるのも納得。時間も予算も限られている人が、世の中のマジョリティなんだから。暇持て余した有閑人向けのレシピは、思いっきりそっちに振らないと、今や興味関心を惹くのさえ難しい。

 

簡単にできて間違いなく美味しく、市販の調味料使用もためらわず、それでいてコストも安いとなったら、そりゃ人気でますわ。と、2017年に人気となったレシピ本を振り返ってもよくわかる。

 

秘訣がわかってる人は、今さら伝統ふりかざされるのもイヤなんでしょ、きっと。

 

お正月をおせち料理で乗り切るように、日々の生活も作り置きで乗り切れば、ゆとりの時間も日々に生まれる。ま、余った時間で特段することがない人にとっては関係ない話なんだけどさ。

 

今年は自民党の総裁選もあって、政治クラスタSNSでも活発に活動しそうで今からうんざり。てっぺんに居てもうてっぺんには居られなくなった人は、別のてっぺんに飛び移るしかないんだってさ。これ豆知識ね。

 

以前にも書いたけれど、忘れないためにもう一度。

 

社会に居場所が見つけられない人間を、戦場という非日常に走らせるような、大きな物語なんてイラネー。

 

ってことで、今後もみみっちく日々の生活を見つめていく所存さ。

 

お休みなさーい。

アレンジ

お餅が四角いと、微妙に違和感を感じる丸餅派。たまーに食べると、新鮮さ。

 

“お正月らしさ“なんてものは、すでに食べ物のなかにしか残ってない気がしてしょうがない、新年二日目。門松に晴れ着、凧に羽子板に。お正月らしさを彩る各種アイテムは、もうすっかり”デザインの中のもの“になってしまって、門松を除けばリアルで目にすることも稀になった。地域性はきっとある。

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七夕らしさも雛祭らしさも、結局はインテリアと食べ物に収斂していったように、お正月もインテリアと食べ物に収斂していき、インテリアと食べ物に興味関心の薄い人の生活からは、お正月も抜け落ちていく。のかもね。

 

元日ならいざ知らず、二日ともなるとロードサイドのお店はどこも通常営業で、通常営業に正月らしさもへったくれもあるかと、初売りセールののぼり以外には、正月っぽさもなし。

 

毎年お参りに行く神社は、年々歳々お参りする人が増えている。

 

信心深い人が増えたというよりは、単に街の性格が、商業やビジネスの街から住む街へと変わり、住民が増えただけのことだと思ってる。普段着かつ家族でお参りに来ている人が多く、新年早々デートでここに来ました、キャハ☆ みたいな、浮かれた人はごく少なし。

 

そういう浮かれた人は、もっとネームバリューがあって、参詣者も多い場所に行くはず。場合によっては親や近所の人の目が届く場所で、わざわざ浮かれ騒いで針の筵に座ったり座らされたりすることもないわな。

 

二日目にして、すでに飽きているおせち料理

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目先を変えようと、ローストビーフをホットサンドにしてみたところ、焼き肉サンドになった。半生がキモで決め手のローストビーフから、半生を取ってどうすると釈然としないながらも、それなりに美味しかった。

 

ついでにおせちにはつきものの“なます”も、余ったらバインミーの具材にしてみようと思いつく。今年のお雑煮は、年末に作ったランチョンポークから出たスープをリサイクルした、コンソメ仕立てにしてみた。勝手にアレンジする方だから、どう考えても伝統とは相性が悪い。

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ご飯に合うものはたいていトーストにも合うから、やっぱり余ってしまいそうなきんとんも、最後はきんとんトーストにして消化する予定。

 

多読や速読をよしとする人は、評論家やジャーナリスト、あるいは記録をつけるのが好きな人なんだってさ。

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普通の人、生活のなかに読書という行為を取り入れ嗜む程度の人にとっては、多読や速読も関係ない。多読や速読をよしと喧伝する人たちの多くは評論家やジャーナリスト系の人や、その種の人たちの覚えがめでたくなりたい人たちだから、すすんで彼らの養分になることはない。

 

例えばtwitterのタイムラインで。

 

ほれ読め、さぁ読め、早く読めと言わんばかりの人が出現することがあって、うんざりしてた。映画でも本でも楽しみのために手に取るもので、義務として読む人は別の目的がある人。義務を果たさずとも、他者の成果物をチートする手段には事欠かないとなったら、もうルールの変え時。

 

ルールが変わるんだったら、古い衣はとっとと捨てるに限るんでしょ。

 

愛さないものは愛されないという単純な事実の前には、すこしの不思議もなし。

 

お休みなさーい。