クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

西洋的ステレオタイプをぶち壊す『エム・バタフライ』見た

ラストエンペラー』で清朝最後の皇帝溥儀を演じたジョン・ローンが、ヒロイン役。キワモノかな?と思った通りのキワモノだけど、ゲテモノになりかねないキワモノが、最後に見事な背負い投げを決めてくる。

 投げ飛ばされたのは西洋的ステレオタイプで、虐げられるのは白人男性。見事に騙されちゃったフランス人外交官ルネ・ガリマールを、ジェレミー・アイアンズが繊細に演じてる。

 

紳士なヨーロピアンとユニセックスな魅力にあふれたオリエンタリズムの、衝突ならぬ競演も楽し。役にぴったりな俳優が見つかったからこそ、実現した作品かも、かもかも。

 

 舞台に選ばれたのは、文革目前の北京

オペラの『蝶々夫人』がベースとなった『エム・バタフライ』は、1964年の北京が舞台。1964年といえば、東京オリンピックの年で、アメリカが本格的にベトナム戦争に介入した年でもあって、この時代背景が超重要。

 

北京のフランス大使館に勤務するルネ・ガリマールは会計担当者。インドシナ紛争、そしてベトナム戦争と、アジアが紛争の火種となっている渦中の中国は、直接戦争には介入してないものの、諜報戦の舞台となる重要な場所。そこで仕入れた情報が、アメリカ辺りに流れていく仕組み。

 

オペラ『蝶々夫人』で蝶々さんを演じたソン・リリンことジョン・ローンにひと目ぼれしたガリマール。彼女に言われるまま、市中で京劇が上演される劇場にまで足を運び、ソン・リリンと積極的にお近づきになろうとする。

 

政府関係者のガリマールなのに、あまりにも安直にソン・リリンとお近づきになり過ぎで、それでいいのかとまず1回目のツッコミとして問い詰めたくなる。ちなみにこの後も何回か、それでいいのかとツッコミたくなることがたびたびさ。

 

ストレートの西洋人男性が、オリエンタルな東洋人男性と、「そうとは知らずに」恋に落ちるお話。設定が設定だけに「嘘やーん」とツッコミたくなることたびたびなのに、本人たち、特にジェレミー・アイアンズ演じるガリマールが大真面目だから、成立しちゃってる。

 

なぜガリマールは騙されたのか

ジョン・ローン演じる京劇俳優ソン・リリンは、ガリマールを騙す気満々。騙す気満々にさえなれば、騙せるのか?という疑問は、ガリマールの置かれた状況を考えれば説明がつく。

 

ガリマールは、新任とはいえ大使の信頼も厚く、仕事のできる人。仕事が出来過ぎるゆえに、古参職員からは疎まれていて、仕事面ではプレッシャーを感じていた人。ストレスが嵩じると幻想、イルージョンに逃げたくなるものだけど、ガリマールは特にその傾向が顕著な人。ロマンチストでもあって、結局そのロマンチシズムが仇となる

 

相手が女性か男性か。やることやったらそんなのすぐわかるやろという危地を、ソン・リリンことジョン・ローンは巧みにかわす。「服は着たままで」とか。???と思うリクエストも、東洋の奥ゆかしい女性ならばこそと、むしろ喜んでたかも。

 

哲学的かつ小難しい、インテリジェンスあふれる会話と、性愛に走り過ぎない触れ合いと。体と体の結びつきよりも、魂と魂の結びつきをより重視していたせいか、ガリマール、立場に無自覚すぎで、歓心を買うためとはいえ、機密事項喋りすぎ。

女がどう振る舞うべきか、男にしかわからない (作中の台詞より引用)

 とはまったくその通りで、自らの女性性を信じて疑わないものは、ことさら女っぽく振る舞う必要なんて、まったくないのさ。

 

ことさら女っぽくふるまう必要はないから西洋女性はあけすけで、欲望にも忠実。その姿に幻滅を感じてか、ますます幻想、イルージョンにすがるようになる頃から、ガリマールの転落が始まる。

 

だって、周囲の人が公人、政府関係者としての彼の判断力に、疑いを持つのにじゅうぶんな実績積み重ねたからな!

 

いっぽう北京にも文革の波が押し寄せてきて、ソン・リリンことジョン・ローンは、一見うまく逃げ切ったようで、実は零落してる。

 

ソン・リリンことジョン・ローンの心中やいかに

オリエンタルな人らしく、ソン・リリンが感情をあらわにすることも、激情に駆られることも、滅多にない。

 

笑顔さえ滅多に見せない相手に夢中になれるのは、やっぱり幻想、イルージョンのなせるわざかと思わなくもない。ところが相手のガリマールは、魂と魂の結びつきをより重視するっぽいロマンチスト。ソン・リリンがガリマールに捧げたのは、魂だったのかも

 

断ち切ろうと思えば断ち切れた関係なのに、パリに戻ったガリマールの前に、自ら姿を現したのはソン・リリンの方。

 

文革で強制労働に従事させられていたソン・リリンは、もう舞台に上がることはない。

 

二人の生活の場も北京からパリに移り、ガリマールはもう外交官ではなく、ソン・リリンももう女優ではない。生活が支配する場に移ってきてなお、二人の関係には変化なく、恐らく性愛からも遠いまま。その関係に我慢できずにぶち壊しにかかったのは、きっとソン・リリンの方

 

この映画、後半になるほど見どころが増えるので、前半で脱落するともったいない。

 

ソン・リリンは、最終的にはガリマールが政治犯として裁かれるよう立ち回ったとしか思えない。法廷にガリマールを引きずり出し、大勢の人の前でガリマールに恥をかかせる。

 

だって誰もが信じられない。二人の間には子どもができたことも、その子を人質にとられてのガリマールの行動だったことも。そもそもあんたたち、することさえしてないやんとは全法廷の人の声で、関係者の声で、ガリマールが可哀想すぎる。真相を知ったら、すべての純情で紳士な男性も泣くに違いない。

 

そして、ガリマールに「西洋イチの間抜け」というレッテルが貼られた時、東洋から西洋への復讐も完成する。

 

蝶々夫人』では、アメリカ海軍士官ピンカートンと恋に落ちて捨てられた蝶々さんは、恥じて死ぬ。エム・バタフライ』では、フランス人外交官ガリマールは、ソン・リリンによって「西洋イチの間抜け」としてこっぴどく恥をかかされる。ざまあみろという声が、特にソン・リリンを操ってたあたりから盛大に聞こえてきそう。

 

二人のあいだに愛はあったのか?

 さてソン・リリンによってこっぴどく恥をかかされたガリマールだけど、彼は単なる被害者なのか。

 

「幻想の方がよかった、生身のお前はいらん」と言われたら、言った方と言われた方と、どちらがより壊れるのか。生身の、ありのままの僕・私を愛してと思ってた相手は、たまらんだろう。

 

もしも。ガリマールに理性があり、ソン・リリンの正体を知った時にその立場を悪用し、逆スパイに仕立て上げようとでもすれば。

 

二人の話は政治的なものとなって、公人としてのガリマールの面目も立ったけれど、彼は徹頭徹尾取り乱した。公衆の面前で恥をかかされてもなお、幻想のソン・リリンを愛したと証言すれば、ガリマールの行為と恋はどこまでいっても私人としての暴走になる。

 

私人として暴走したガリマールは、獄中では狂人として囚人から喝采を浴びている。

 

好奇の視線にさらされ続ける市中よりも、獄中にあって適度に一般社会から切り離されていた方が、「西洋イチの間抜け」にとっては生きやすい。最大限相手を尊重し、信頼したあげくに残されたものが「西洋イチの間抜け」というレッテルだったら、もう正気ではいられない。

 

そこまでソン・リリンが計算したのかどうかは永遠の謎だけど、とにもかくにもガリマールは囚われの人となり、ソン・リリンは国へと帰る。

 

「西洋イチの間抜け」としてガリマールが生き恥を晒すのを良しとしないことも計算済みで、引導を渡して彼を苦痛から解放する道筋をつけたのなら、そこにあるのはやっぱり愛にしか見えない。

 

引導を渡すのも、愛がないとできないんだ。

 

よいものを見て、満足した。謎に包まれた生い立ちのジョン・ローンは、現在ではすっかり表舞台から姿を消している。考えて見れば、謎に包まれた生い立ちの彼が、清朝最後の皇帝役を演じたのはなんとも皮肉。

 

ハリウッドでも日本でも、二世三世が活躍するようになって全体が底上げされてクリーンになれば、彼のような人の活躍する場もなくなっていくのかも。太く短くを最初から志向していた彼は、賢明でもあった。

 

お休みなさーい。

ホワイトチョコで作るホワイトブラウニー

今は検索上位で表示されるとはいえ、いつまで続くかわからない&消えるかもしれないから急いで書き起こし。ネットの海に漂う、情報の命や儚し。

 

ホワイトチョコを使って作るから、ホワイトブラウニー。

 

普通のブラウニーに比べると、甘さも体感で1.5倍。時間が経つと、ホワイトチョコと混然一体となった生地がますます美味しくなるから、ついつい食べ過ぎてしまう。いかんいかん。

f:id:waltham70:20170216213122j:plain

【材料】

  • ホワイトチョコ 80g 
  • 無塩バター 60g 
  • 砂糖 60g 
  • 卵 1個 
  • 薄力粉 60g 
  • ベーキングパウダー 小さじ1 
  • ドライクランベリー 30~40g

下準備として、ドライクランベリーはさっと水で洗って好みのリキュール(コアントローラム酒やブランデーなど)大さじ1に漬け込んでおく。

f:id:waltham70:20170216213123j:plain

バターと刻んだホワイトチョコを、湯煎にかけて溶かす。フライパンにお湯を沸かし、固定用のペーパータオルを敷いて耐熱ボウルを置くとやりやすい。

f:id:waltham70:20170216213125j:plain

すっかり溶けたら砂糖を投入。砂糖を投入すると、生地が分離するけど慌てない。

f:id:waltham70:20170216213129j:plain

割りほぐした卵を加える。泡だて器より、スパチュラ(ゴムベラ)の方が扱いやすい。砂糖のジョリジョリした塊がなくなるまで、よく混ぜる。

f:id:waltham70:20170216213133j:plain

薄力粉とベーキングパウダーを混ぜたものを投入。

f:id:waltham70:20170216213135j:plain

リキュールに漬け込んでおいたドライクランベリーを投入。緑が入るときれいなので、ほんとはスライスしたピスタチオが欲しいところを、代用品のピスタチオパウダーもほんのちょっと振り入れる。

f:id:waltham70:20170216213141j:plain

型に流し込み、180℃に予熱しておいたオーブンで20分焼く。

f:id:waltham70:20170216213148j:plain

完成。参考にしたのはこちらのレシピ。

cookpad.com

冷めたら食べやすいひと口サイズ、あるいはスティック状に切り分けて、あれば粉糖(パウダーシュガー)を振りかける。ホワイトチョコ使ってるで?とアピールしたいので、見た目からして白っぽくする。

f:id:waltham70:20170216213154j:plain

 甘い生地に、クランベリーの酸っぱさがよく似合う。雪道に散ったナナカマドの赤い実を見るたびに、ホワイトチョコを思い出したもんだよ、今シーズンも。通るたびに、チョコっぽいと思ってたさ。

f:id:waltham70:20170118225408j:plain

美しいまま年齢を重ねた女性が目立つようになって、「美しい50歳がふえると、日本は変わると思う。」を実感する日々。

 

アメリカかどこかでも、元スーパーモデルの60歳過ぎた女性はいつまでたってもお美しくてナイスバディで。世の中は、年とってもきれいなままの人と、そうでない人とに分かれることを可視化するのが、人口逆ピラミッド社会。

 

あまり話題にならなかったみたいだけど、レスリングの吉田沙保里さんがTSUBAKIのCMモデルに抜擢されたのも画期的。

 

「なれるわけないじゃん」とわかり切っている、八頭身美人が宣伝する日用品が、嘘くさくてたまらない。だってあなたそれ使ってないでしょ?というのもわかり切ってるから、嘘くささにも拍車がかかる。

 

なろうとも思ってない人が宣伝する商品を手に取ったからといって、「ほら、私みたいになれるわよ?なろうよ」とやられても、何もかもがまったく違うからシラけるばかり。クラスに十人はいそうな人の方が、親近感もわくってもので、吉田沙保里さんがクラスに十人もいたら史上最強チームの出来上がりで、それはそれでまた話が違うんだけど。

 

年とってもきれいなままの人と、そうでない人とに分かれることがクリアーになって、愛でる人と、追いつこうとする人にもくっきり分かれることに。追いつこうとする生き方ばっかりクローズアップされてたけれど、それ以外の道も、別に悪かない。

 

美人コンテストの上位者だけが、人生のすべてを総取りするわけじゃない。そっち方面では、“見たいものしか見ない”は、いい方向に作用してると思ってる。

 

お休みなさーい。

 

ホワイトブラウニーと『ニュースの天才』と

ラ・メゾン・ドゥ・ショコラのチョコレートボックスを、思う存分貪りたいと夢見ていた頃が、思えば一番幸せだった。どんなに好物でも過ぎたれば及ばざるごとしで、あとには胸やけが待つだけ。夢見る頃にはもう戻れない。

 

めんどくさい、今さらという気持ちを押し殺し、思いは形になってた方がわかりやすいので、ちゃんと形のあるものも用意したバレンタイン。

f:id:waltham70:20170214211102j:plain

相手の好みを尊重したものと、自分の好みで突っ走ったものと。二種類用意すればめんどくささも二乗となるはずが、自分のためとなるとめんどくさいもどこかへ吹き飛ぶ現金さ。

 

単なる焼き菓子に見えるけれど、その実ホワイトチョコを使った、ホワイトブラウニー。普通の焼き菓子より激甘。酸っぱいはずのクランベリーを加えてさえ、甘っ!!!!という感想しか出てこない。でもいいの、一度は作ってみたかったから。

 

実際に経験してみれば、欠点もよく見える。

 

捏造、フェイクニュースがテーマとなった『ニュースの天才』は、2003年制作の映画。劇場公開時は、まったく興味がなかった。キュレーションメディアのコピペ記事騒動や、アメリカ大統領選におけるフェイクニュース騒動を経たあとに観るから、前のめりになれる。

ニュースの天才 (字幕版)
 

 大統領専用機エアフォースワンに唯一置かれる雑誌となれば、権威の匂いがプンプンする。主人公は、その権威ある雑誌『THE NEW REPUBLIC』で、最年少ライターとして働く青年スティーブン24歳。

 

描かれるのは、デジタルメディアが世界を制する前の世界で、紙の雑誌の権威がまだ生きていた頃。ついでにピュリッツァー賞がまだ輝かしい響きを放っていた頃でもある。

 

デジタルメディアもすでに台頭しているけれど、彼らが使っている検索サーチがヤフーなところに、時代が出てる。グーグルが覇権を握る前なんだな、舞台は。

 

さて権威ある雑誌『THE NEW REPUBLIC』内で、最年少ながらヒット記事を次々に生み出すスティーブン。編集部の平均年齢は26歳と若く、ノリは部活っぽい。デジタルメディアの、オフィスっぽい雰囲気とは対照的。スティーブンが書いたある記事に、他のメディアが疑いを持ったところから、記事の捏造疑惑が持ち上がる。

 

政治評論を得意とする『THE NEW REPUBLIC』といえば、権威の象徴みたいなもの。疑いを持ったデジタルメディア(フォーブス・デジタル)は大喜びで、権威が犯したかもしれない過ちに飛びついて調査を始める。

 

この映画は、報道に携り、その仕事に誇りを持っている人が見れば、少なからず腹を立てるであろう人物を主人公にしてる。

 

反感を持たざるを得ない人物を主人公に選び、そのうえで“誰のために書くのか”を突きつけてくる。

 

スティーブンは、最年少ながらライターに抜擢されてるだけあって、優秀かつソツのない人物。社内での人間関係には気を配り、ヒットを次々に飛ばす最年少ライターとして、妬みの対象とならないよう、気を配ってもいる。

 

政治談議が好きで、『THE NEW REPUBLIC』編集部の部活ノリを心から愛してるようで、実はそうでもないところが、スティーブンというキャラクターのキモ。

 

業界内では憧れのポジションであっても、業界外から見れば、また違った評価が下されるもの。医者か法律家こそ至高という両親の価値観を受け継いでいるスティーブンは、ロースクールに進学する夢をあきらめてない。

 

従来の『THE NEW REPUBLIC』とは違ったカラーのヒット記事を連発し、権威ある雑誌の“新しい顔“になるかのごとくふるまいながら、その内心は揺れている。

 

権威だけはあるけれど。。。という場所は、往々にしてお金の匂いからは遠いもの。

 

労多くして実り少なしだから、編集部の平均年齢が26歳と低いのも頷ける。生活を優先させたものから去っていき、最後まで残ったごく少数の社会の木鐸によって率いられているっぽいのが『THE NEW REPUBLIC』という雑誌。

 

評論、特に社会評論なんて分野は、万人に喜ばれるものじゃない。権威にとっては煙たい鬱陶しいもので、嫌がられることを承知で営々と積み上げてきたから、最後に信用という看板が手に入る。

 

嫌がられてなんぼの商売で、儲からなくて当たり前。優秀な人にしかできないのに、同じように優秀な同窓生はもっと稼いでいて、心を折られること100万回くらい経てようやく権威に近づける。きっとそんな場所。

 

信念がなければ続かない。そして、スティーブンにはその信念がなかったことが、徐々に明らかになっていく過程が、この映画の最大の見どころ。

 

ヒット記事を連発する期待の新星が、疑惑に対する釈明として“子どもじみた嘘”を繰り返すさまは、ただ哀れ。しかもスティーブンを追求し、追い詰めるのが、能力を侮り馬鹿にしていた新編集長という趣向がいい。

 

報われないことの多い仕事だけど、小石を積むように信用を積みあげてきた、ベテランなめんなよ。

 

社会の木鐸として、今日も明日も明後日も。奥ゆかしく自分のなすべきことを粛々とこなしてる人たちは、そんなこと口にもしないから、かわりに“幼児退行”した目立ちたがりの姿が、スクリーンに映し出される。

 

面白可笑しいだけの、真実でさえない記事で注目を集めたいのなら、何も権威の場所でやることなくヨソでやりゃあいい。

 

この映画、捏造が暴かれるまでを描くのと同時に、スティーブンが“編集心得”を後輩に説く趣向になってるところが最高にクール。

 

“よき編集長は編集部員を守るもの”とか、看板汚したその口でスティーブンが語るそばから、彼の不正行為や、不正隠滅行為が暴かれていくから面白い。しかもその手口が超子どもっぽい。信念が薄っぺらくてペラペラなのが、よーくわかる。

 

ラストシーンは、空っぽな彼を象徴するようなシーンで終るけれど、真にやるせないのは、エピローグ。

 

信念を持たないくせに精力的だった彼は、いったい誰のためにせっせと捏造記事を量産していたのか。承認欲求モンスターに食い荒らされ、信用の看板も食い荒らされた雑誌の権威は地に堕ちたけれど、彼自身はちゃんと第二の人生を生きている。

 

お金にならないから生まれたとも言える記事捏造の時代から、はるか遠く。今ではPVがお金に変わるからと、フェイクニュースが世に溢れている。

 

事実を検証するためのツール、検索サーチの踏ん張りどころで、そのうちこの時代はグーグル使ってたんだね、と懐かしがられたりしてね。

 

お休みなさーい。

バレンタインも近いので、『バレンタインデー』見た

チョコはほとんど出てこない。

 

ハロウィン🎃の時の渋谷が異常な盛り上がりをみせるように、バレンタインになるととりわけ盛り上がるのが、アメリカのロスアンゼルスなのかもしれない。かもかも。

 

 バレンタインデーに同時進行する、老若男女による複数のコイバナが錯綜する群像劇。いくつになってもイチャイチャ、愛情表現もあからさまな人物がいっぱいで、アメリカ人(多分都会限定)のエネルギッシュさに圧倒されまくり。何食ってりゃ、こんなにイチャイチャできるのさ。。と、日本人としてはたじろぐばかり。

 

出演陣も豪華。

 

テイラー・スウィフトアシュトン・カッチャージェシカ・アルバアシュトン・カッチャージュリア・ロバーツにジェイミー・オリバー、はてはクィーン・ラティファにシャーリー・マクレーンまで。一人くらい、好きな俳優見つかるやろ?と言わんばかりの豪華さで、一人でも多くの人に「好きになってもらいたい」「見て欲しい」と、設定からして愛がいっぱいさ。

 

多分オーバーに演出されてるとはいえ、日米のバレンタイン事情の違いを知る上でも面白い。

 

ストーリーの中心となるのは、花屋の青年アシュトン・カッチャー。すべての道は花屋に通じると言いたいくらい、バレンタインには大忙しとなる業種だから、ストーリーの中心となるのもお花屋さん。

 

微笑ましい愛のキューピッドとなることもあれば、期せずして知らなくてもいいことまで知ってしまう、なかなかに悩み多きポジション。花束やアレンジメントづくりに、配達まで、夜更けまで大忙し。

 

結婚適齢期アシュトン・カッチャー自身も、恋の天国と地獄を行ったり来たりで忙しい。花屋、そのお客、その先の人間関係、あるいはそこですれ違った人たちと、袖すり合った人たちのコイバナが次々と繰り広げられる。

 

年齢相応に、彼氏とイチャイチャしまくりのテイラー・スウィフトが、とびきりカワイイ。超キュートで、超ラブリー。どれだけイチャついていても、「若いっていいわねぇ」とスルーされる年齢の時に思いっきりイチャついた人間は、きっと真っすぐに進んでいくさどこまでも。

 

と、思える愛されキャラ時々呆られ系を、のびのびと演じていて、好感度大。物怖じせずに、好きなものに好きと言い切る打たれ強さの秘密は、きっとこんなところにある。

 

場数を踏まなかったせいか、あるいは踏みまくってか、真っすぐにいかずにジグザグ折れ曲がりまくりの大人の恋も複数同時進行で、不実な人と誠実な人の明暗もくっきりはっきりで、苦笑するしかない。

 

ジェニファー・ガーナ―演じる小学校教師の恋は、真っすぐにのびのび育った彼女の恋が、これでいいわけないと周囲の助けによって修正される。

 

誰も望まない恋や愛が見たいんじゃない。みんなに祝福される、ブラボーとみんなが喝采を送りたくなる恋や愛が見たいんだという、揺るぎないコンセプトにも愛がいっぱいさ。

 

この映画を見ると、日本がいかに「お一人様に優しい」国かと思い知らされる。パートナーが居て当たり前。パートナーチェンジも当たり前なのは、それだけ一人で生きるのに厳しい国だから。

 

アン・ハサウェイ演じる奇妙な女性は、奇妙な人生を生きるしかない、人生の重荷を背負ってる。一人では潰されそうだから、誰かと重荷を分かち合う。多分そんな理由で、パートナーを求める人が彼の国には多いんだ。

 

夫婦になっても孫が生まれても、いつまでも互いの愛を確認せずにはいられないのも、家族関係がドライで、日本のように体面や親族に縛られないことの裏返し。いつでも解消できる関係なら、せっせと繋ぎとめるしかない。繋ぎとめても切れちゃうものは切れちゃうから、切れない関係、いつまでも続く愛こそ貴重なんだ。

 

ほぼ一年ぶりの逢瀬という、たった一日のために片道14時間かけてジュリア・ロバーツが旅をするのも、いつ終わっても不思議のない関係だから。会える時に会っておかないと、「次の機会」は永遠に訪れないかもしれないから彼女は空を飛ぶ。

 

ジュリア・ロバーツの空の旅のお供となる男性が、とっても思いやりのあるステキな男性で、どんな相手と恋に落ちるのかと思いきや、そこに着地するかとサプライズも待っている。(← 勘のいい人なら、もっと早くに気付くに違いないけど。。)

 

それがみんなに祝福されるものならば、誰がどんな人と恋に落ちたっていいじゃない。という哲学に貫かれているから、後味がいい。“みんなに祝福されるもの”というところが、ポイントさ。

 

バレンタインとはいえ、相手がいない人向け、ほんとは居たはずなのに。。という人向けの見せ場もちゃんとあって、可能な限りすべての人に愛とハッピーを届けようとしているところがとことん後味がいい。

 

絵に描いた餅、理想は理想でしかないとしても、理想の形はこうなんだと高々と掲げてくるから、理想も現実になりやすいのさ、きっと

 

大切な人をちゃんと大切にしている人ほど、博愛にも近くなるんだねと思う、ラブ&ハッピーが詰まってる。モノより思いとか言うけれど、モノがあった方が愛も伝わりやすいやね。

 

お休みなさーい。

証言は大事『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』見た

テレビ史上初の記録映像シリーズとなった、アイヒマン裁判。

 

大物ナチス戦犯のひとりであるアドルフ・アイヒマンを、人道に対する罪で裁いたアイヒマン裁判では法廷にカメラが持ち込まれ、その一部始終が全世界に向かって放送された。

 『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』は、アイヒマン裁判を放送することになった監督やプロデューサーといった、テレビサイドの人から見た裁判を描いてる。

 

時代は、ロシアのガガーリンが世界初の宇宙飛行士となり、キューバ危機が勃発して第二次大戦度、世界が核戦争にもっとも近づいていた頃。

 

次々に“ホット”なニュースが起こり続けるなか、すでに「ナチス悪い奴、許すべからず」で終っていた出来事を、裁判に持ち込んだとはいえ、全世界に放送するほどのニュースバリューがあったのか。

 

史実を確たる史実とするためには、映像のインパクトが欠かせない。

 

もしも、アイヒマン裁判の一部始終が映像記録に残されていなければ。そこで証言した人たちの証言が残っていなければ、あったことさえなかったことにされてしまったかもしれないから、やっぱり映像の証拠能力は強力なんだ。

 

願うことはただひとつ。もう生きていたくないから殺してくれというような目に遭った人に対して、あったこと、事実を語って記録に残すことは償いの一種。

 

裁判そのものは地味だから、“世紀の裁判”とはいえ、世の中の人はホットなニュースに夢中で関心は薄い。けれど監督には勝算ありで、「証人の証言が始まれば変わる」との読みどおり、証人が証言台に立ち始めると、流れが一気に変わる。

 

平和に暮らしている戦後の人が知らなかったこと、想像もしなかったおぞましい出来事が次々と明らかになっていく。

 

そのほとんどは、21世紀に生きる人間ならよく知っていることだけど、戦後はやっぱり臭いものに蓋で、歴史の闇に葬られていたもの。

 

テレビ史上初の記録映像シリーズとなったアイヒマン裁判は、厳重に封印されていた臭いものの蓋を開け、語ることさえ許されずに汚物として沈黙を強いられた人たちの、声を聴く作業。

 

タブーを破る作業だから途中で妨害にも遭い、告発者の家族や自身も危険にさらされる。

 

証言する人の中には途中で気を失う人も居て、二度と思い出したくもない出来事は、語ることさえ負担になるものなんだ。

 

ところでこれは裁判で、法廷には被告であるアイヒマンも同席してる。カメラは執拗に彼を追い、彼が“崩れる”さまを映像に残そうとするんだけど、まぁこれがなかなか崩れないんだな。

 

民族抹殺という、後世の人が聞いたら呆れかえるような悪魔の所業。指揮系統のてっぺんに居る人たちは、いかなるモンスターかと思いきやさにあらず。

 

映画には実際の裁判映像が出てくるけど、“悪の凡庸さ“とアーレントに評された人は、かといって平凡なおじさんでもない。のらりくらりと決定的な失言を巧みにかわす、それなりに頭の切れる、任務に忠実な人。戦後だから無能な勤勉者っぽく見えるだけ。

 

虐殺の事実を知った人たちが言葉を失くし、あるいは生き残った人たちが甦った過去に苦しめられるなか、アイヒマンその人は何を思うのか。

 

もしも彼が人間らしい言葉を残せたなら、後世の人の評価も変わったものの。官僚的な人はどこまでいっても官僚的で、その枠も羽目も外せなかったのが彼にとっての悲劇。

 

モンスターではないけれど、かといって人間味も感じられない。満員の通勤電車にはよく居そうなタイプで、苦痛から逃れるための最適解には弱そうで、アイヒマンは決して特殊な人ではないと思わせる。

 

通勤や仕事のストレス、おもに“自分はこのような苦痛を味わう人間ではないはず”というある種の選民意識が、アイヒマン化を加速する。

 

アーレントがアイヒマン裁判で触れた、一部のユダヤ人によるナチスへの協力についてはスルーで、そこはちょっと深みに欠ける。わかりやすさに舵を切ると、複雑な要素はカットするしかない。

www.nhk.or.jp

それでも、世紀の裁判を後世の人の視聴にも耐えるよう、カメラワークにまで気を配った、“記録する側の視点”としてはそれなりに面白かった。ジャーナリストは、目立つところだけつつきたがるカササギのようなものとか(一部不正確)。含蓄あるセリフも堪能した。

 

世界を揺るがした悲劇は、報道する側にも相応の覚悟と技量が求められる。カッコいいからと報道に憧れる人の気が知れない。知らなくていいことまで知ってしまう、本来はとっても気が重い作業なのに。

 

臭いものの蓋を開けたあとでもアレはアレ、コレはコレと割り切れるのなら、その人はとってもアイヒマンに、ファシズムに近いんじゃないか。

 

お休みなさーい。

「NO WORD NO LIFE」がいちばんしっくり

1997年初版の古い本などを読み返すと、そういや忘れてたわ。。ということや、もしかしてこれはココに着地するのかな???ということが確認できてお役立ち。

 

世界でもっともよく読まれているベストセラーは聖書。

 

という俗説は興味深くて、信者としてのマストアイテムだから、内容関係なしに売れている。聖書というモノそのものの価値じゃなくて、信者が信者の証として持つ、必須アイテムだから売れているという見方。

 

ちゃんと中身を精読してる人もいるけれど、中身カンケーなしにただ持つべきマストアイテムとして持つだけの人のためならば、カタチ、フォーマットが変わっても問題ない。

f:id:waltham70:20170204204220j:plain

それならば。より高価なカタチへと姿を変え、巻き上げる小銭も増やすか、あるいはより便利なカタチへと姿を変え、販路の拡大に努めるのか。そのあたりに、その宗教の性格も表れる。

 

今だったら本よりも、DVDみたいな映像パッケージの方が、きっと布教には便利。

 

ところが時代は過渡期で、DVD再生用の機器がない場合はどうするんだ???な時期で、動画になるか否かスマホ対応か否かが運命の分かれ道で、それぞれの熱心な信者がヤキモキしてる。ように見える。

 

宗教やそれに類する行為は、信じる者は救われるし救おうとするけれど、信じない者は救わないし、救えない。

f:id:waltham70:20170204204217j:plain

「NO MUSIC NO LIFE」だったことは一度もなくて、音楽についてのこだわりは限りなく薄い。テケトーに誰かのおススメを聴いている。いちばん便利なのは、ジャンルさえ選べば、無限におススメがかかり続ける聴き放題サービス。選ぶことにリソース使いたくない人向けさ。

 

「NO BOOK NO LIFE」でも「NO LITERATURE NO LIFE」でもしっくりこず、「NO WORD NO LIFE」がいちばんしっくりくる。

 

ことばを使ったものに、サブもメインもなくて、ただ好きか嫌いかがあるだけ。読み捨て前提のフライヤーでも、じっくり読む人だもの。

 

指輪物語』がマストアイテムとされていた時、がんばって読んではみても、いまいちのめり込めなかった。あれは教養や人生の深みや機微みたいなものがわかってる人が読んだ方が面白いもので、人生経験が足りない人間には難解過ぎて面白さが理解できなかった。『指輪物語』をゆりかごに生まれた、面白いや楽しいに特化した、和製のファンタジー作品があふれていたせいもある。

 

ロード・オブ・ザ・リング』になって初めて、作品の真価や面白さに気付けた。

f:id:waltham70:20170204204215j:plain

よりわかりやすい、間口の広いフォーマットになって、改めて見直される作品は、きっとこれからも生まれ続ける。

 

スケールが大き過ぎて、スターウォーズクラスの技術力でもないと、その真価は海外に届かないだろうと思ってる作品が密かにあって、でもそんなのとっくに“その筋”の人たちなら、わかってることなんだろう。

 

ある世界を決定的に変えた人は、それまでのルールを変えたから憎まれもして、賞のような何らかの栄誉に輝くのはずっと先。

 

でもさ、その背中を追いかけた人、育てた後継者の数が、たとえ今は無冠であってもその人の偉大さを証明してる。

 

児童文学の系譜に連なるものが好きで、子どもに勧められないものの布教に携わる気持ちは、一ミリグラムもなし。

 

大人は、大人だけで楽しめばいい。リサーチ能力の高い子どもは、“壁“を築いても勝手に越えていくんだから、ほっときゃいい。壁を越えた後に待つ、怖さだけ知ってりゃ問題なし。

 

恵方巻を売る商業施設は、どこも常にない混みようで、献立を考えるリソースやイベント用の食は外注したい人多数なんだ。エンゲル係数が上昇してるのも、納得。“消えもの“にお金使っても惜しくない人が、それだけいるってことさ。

f:id:waltham70:20170204204212j:plain

これは、ご飯のかわりに「ひじき入りのおから」が入ったローカーボな恵方巻。来年店頭に並んでるとは限らないから、ついお買い上げ。

 

トレンドを考える人は大変だね。ごく当たり前の恵方巻を求める人たちは、長蛇の列まで作って、辛抱強く待ってたさ。ひねりが効きすぎたローカーボな恵方巻は、待ちもせずにサクッと買えた。列に並ぶことが、とことん嫌いなんだ。

 

お休みなさーい。

壁の向こうはこんな世界だった、『東ベルリンから来た女』見た

壁を壊すための苦労や苦闘が遠くはるかなる記憶になって、今また場所を替え、壁を築くとかなんとかやかましい。あの苦労はいったい何だったんでしょうね、お父さんお母さん。

東ベルリンから来た女 [DVD]

東ベルリンから来た女 [DVD]

 

 (Amazonビデオ入りしてた)

キャッチコピーは

東と西。嘘と真実。自由と使命。その狭間で揺れる愛。(amazon作品紹介より引用)

 内容は、だいたいこれで合ってる。状況を説明するセリフもナレーションもごく控え目な、言葉足らずの映画で大人向き。語られざることは観客自身の言葉で補えってことかいな。

 

舞台となるのは、旧東ドイツ領のトルガウという街。日本人的には馴染みのない土地だけど、「トルガウ」で検索すると、トルガウの戦いやエルベの誓いといった来歴がヒットする。ヨーロッパの人にとっては、桶狭間関ケ原みたいな場所っぽい。

 

フィクションの舞台に選ばれるくらいだから、そこにはきっとそれなりの意味がある。

 

トルガウは、プロイセンとオーストリアが、連合国軍アメリカとソ連赤軍が睨み合った場所。1980年という設定の『東ベルリンから来た女』で睨み合うのは、自由の象徴である西ドイツ側へ女を脱出させようとする側と、管理国家東ドイツにとどめたい側。さてヒロインの運命やいかに?

 

眉間にくっきり皺が刻まれた、笑わない女性医師バルバラがヒロイン。美人なのに、勤務する病院ではめったに笑顔を見せることもなければ、無駄口を叩くこともなく、孤立上等な態度でのぞむ、感じ悪い人。

 

ベルリン(←都会)の病院から左遷されてきたという経歴は、周囲にとっくに知れ渡っており、同僚のような上司のようなライザー医師を除けば、あえて彼女に近づこうとする者も居ない。

 

感じ悪いバルバラだけど、医師としての技量は高く、患者には義務を越えて献身的で、いい医師なんだ。

 

さてそんなバルバラは、自転車を手に入れ通勤や生活の足とするようになる。医師であっても分断された当時の東ドイツでは、自家用車は容易に手に入らないものだったのか。それとも、西側への移住を希望して左遷された彼女だからなのか。

 

いつでもどこでも自転車でチャリチャリ、時には電車を乗り継ぎお出掛けするバルバラの行動は、いまいち挙動不審で、謎めいている。静かな文芸作品は、時にすぴーと健やかな眠りへと誘うものだけど、謎めいたバルバラの行動のおかげで、睡魔に襲われることはなかった。

 

あら、バルバラってスパイなのか?東西の分断という政治的な状況下、政治犯を疑われてもしょうがない状況で、しだいに明らかになるのは、これは愛のお話だってこと。

 

笑顔を見せないバルバラが、とびっきりの笑顔を見せるのは、たった一人にだけ。

 

彼女と彼のあいだに何があったのか。

 

そこには一切触れられてないけれど、危険を冒しても彼女を救おうとし、救おうとする手を懸命に掴もうとするバルバラの姿に、ふたりの歴史が垣間見える。

 

なのに。。というラストに感じたのは、人類愛。あるいは博愛。あるいは人道という道。

 

ディープ・インパクト』を思い出したと書けば、わかる人にはわかってしまうネタバレではあるけれど、『ディープ・インパクト』と違うのは、壁はいつかは壊れ、分断にも終わりが来るところ。

 

そのチャンスはごく僅かでも、次の機会を待てるのなら、機会のない者に譲ることは、誰にでもできることなのか。

 

我さきにと、蜘蛛の糸に取りつく方が利口な生き方であっても、その生き方を選べない人もいる。まったく笑顔を見せず、孤立上等で生きる人が見せる愛、しかもごくさりげなく、葛藤を感じさせない行動なところがミソ。大きすぎる代償を伴っているのに、惜しむ気配を微塵も感じさせずに、強い。

 

強い人だから、捨てられる。

 

バルバラの決断を、喜ぶ人も居れば、悲しむ人も居る。彼女が大きな決断をするところで映画は終わるけれど、余韻もたっぷり。

 

壁が壊れ、分断に終わりが来た時、彼女はもう一度選ぶことができる。環境が変わっても変わらなかった関係は、バルバラが人道に基づく決断をしたことで揺らいだのか。新しい生活(そのままとも言えるんだけど。。)を選んだように見えて、その実まったくそうではないかも知れず、後日譚の方がとっても気になる。後日譚が、あったとすればの話だけど。

 

引き裂かれたことでかえって燃え上がった愛だったのか。それとも、永遠に続く愛だったのか。

 

人道に対して信念を見せた人の、選ぶ愛や愛情の対象は、人間臭く移ろいやすいものなのか否か。綺麗にまとめてくるから、つい邪推したくなる。「別にあなたのためじゃないんだからね!」という台詞を脳内補完したくなる、決まり悪そうなバルバラのラストの表情が、とっても人間臭くて、いいんだ。

 

フィクションはフィクションでしかないとはいえ、当時の雰囲気を知る助けにはなる。分断が終わったあとの世界は、『グッバイ、レーニン!』で垣間見た。

 好きスキ大好きチョー愛してる、な恋愛はどうでもいい人にもしっくりとくる、人間ドラマだった。

 

お休みなさーい。