クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

証言は大事『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』見た

テレビ史上初の記録映像シリーズとなった、アイヒマン裁判。

 

大物ナチス戦犯のひとりであるアドルフ・アイヒマンを、人道に対する罪で裁いたアイヒマン裁判では法廷にカメラが持ち込まれ、その一部始終が全世界に向かって放送された。

 『アイヒマン・ショー 歴史を映した男たち』は、アイヒマン裁判を放送することになった監督やプロデューサーといった、テレビサイドの人から見た裁判を描いてる。

 

時代は、ロシアのガガーリンが世界初の宇宙飛行士となり、キューバ危機が勃発して第二次大戦度、世界が核戦争にもっとも近づいていた頃。

 

次々に“ホット”なニュースが起こり続けるなか、すでに「ナチス悪い奴、許すべからず」で終っていた出来事を、裁判に持ち込んだとはいえ、全世界に放送するほどのニュースバリューがあったのか。

 

史実を確たる史実とするためには、映像のインパクトが欠かせない。

 

もしも、アイヒマン裁判の一部始終が映像記録に残されていなければ。そこで証言した人たちの証言が残っていなければ、あったことさえなかったことにされてしまったかもしれないから、やっぱり映像の証拠能力は強力なんだ。

 

願うことはただひとつ。もう生きていたくないから殺してくれというような目に遭った人に対して、あったこと、事実を語って記録に残すことは償いの一種。

 

裁判そのものは地味だから、“世紀の裁判”とはいえ、世の中の人はホットなニュースに夢中で関心は薄い。けれど監督には勝算ありで、「証人の証言が始まれば変わる」との読みどおり、証人が証言台に立ち始めると、流れが一気に変わる。

 

平和に暮らしている戦後の人が知らなかったこと、想像もしなかったおぞましい出来事が次々と明らかになっていく。

 

そのほとんどは、21世紀に生きる人間ならよく知っていることだけど、戦後はやっぱり臭いものに蓋で、歴史の闇に葬られていたもの。

 

テレビ史上初の記録映像シリーズとなったアイヒマン裁判は、厳重に封印されていた臭いものの蓋を開け、語ることさえ許されずに汚物として沈黙を強いられた人たちの、声を聴く作業。

 

タブーを破る作業だから途中で妨害にも遭い、告発者の家族や自身も危険にさらされる。

 

証言する人の中には途中で気を失う人も居て、二度と思い出したくもない出来事は、語ることさえ負担になるものなんだ。

 

ところでこれは裁判で、法廷には被告であるアイヒマンも同席してる。カメラは執拗に彼を追い、彼が“崩れる”さまを映像に残そうとするんだけど、まぁこれがなかなか崩れないんだな。

 

民族抹殺という、後世の人が聞いたら呆れかえるような悪魔の所業。指揮系統のてっぺんに居る人たちは、いかなるモンスターかと思いきやさにあらず。

 

映画には実際の裁判映像が出てくるけど、“悪の凡庸さ“とアーレントに評された人は、かといって平凡なおじさんでもない。のらりくらりと決定的な失言を巧みにかわす、それなりに頭の切れる、任務に忠実な人。戦後だから無能な勤勉者っぽく見えるだけ。

 

虐殺の事実を知った人たちが言葉を失くし、あるいは生き残った人たちが甦った過去に苦しめられるなか、アイヒマンその人は何を思うのか。

 

もしも彼が人間らしい言葉を残せたなら、後世の人の評価も変わったものの。官僚的な人はどこまでいっても官僚的で、その枠も羽目も外せなかったのが彼にとっての悲劇。

 

モンスターではないけれど、かといって人間味も感じられない。満員の通勤電車にはよく居そうなタイプで、苦痛から逃れるための最適解には弱そうで、アイヒマンは決して特殊な人ではないと思わせる。

 

通勤や仕事のストレス、おもに“自分はこのような苦痛を味わう人間ではないはず”というある種の選民意識が、アイヒマン化を加速する。

 

アーレントがアイヒマン裁判で触れた、一部のユダヤ人によるナチスへの協力についてはスルーで、そこはちょっと深みに欠ける。わかりやすさに舵を切ると、複雑な要素はカットするしかない。

www.nhk.or.jp

それでも、世紀の裁判を後世の人の視聴にも耐えるよう、カメラワークにまで気を配った、“記録する側の視点”としてはそれなりに面白かった。ジャーナリストは、目立つところだけつつきたがるカササギのようなものとか(一部不正確)。含蓄あるセリフも堪能した。

 

世界を揺るがした悲劇は、報道する側にも相応の覚悟と技量が求められる。カッコいいからと報道に憧れる人の気が知れない。知らなくていいことまで知ってしまう、本来はとっても気が重い作業なのに。

 

臭いものの蓋を開けたあとでもアレはアレ、コレはコレと割り切れるのなら、その人はとってもアイヒマンに、ファシズムに近いんじゃないか。

 

お休みなさーい。

「NO WORD NO LIFE」がいちばんしっくり

1997年初版の古い本などを読み返すと、そういや忘れてたわ。。ということや、もしかしてこれはココに着地するのかな???ということが確認できてお役立ち。

 

世界でもっともよく読まれているベストセラーは聖書。

 

という俗説は興味深くて、信者としてのマストアイテムだから、内容関係なしに売れている。聖書というモノそのものの価値じゃなくて、信者が信者の証として持つ、必須アイテムだから売れているという見方。

 

ちゃんと中身を精読してる人もいるけれど、中身カンケーなしにただ持つべきマストアイテムとして持つだけの人のためならば、カタチ、フォーマットが変わっても問題ない。

f:id:waltham70:20170204204220j:plain

それならば。より高価なカタチへと姿を変え、巻き上げる小銭も増やすか、あるいはより便利なカタチへと姿を変え、販路の拡大に努めるのか。そのあたりに、その宗教の性格も表れる。

 

今だったら本よりも、DVDみたいな映像パッケージの方が、きっと布教には便利。

 

ところが時代は過渡期で、DVD再生用の機器がない場合はどうするんだ???な時期で、動画になるか否かスマホ対応か否かが運命の分かれ道で、それぞれの熱心な信者がヤキモキしてる。ように見える。

 

宗教やそれに類する行為は、信じる者は救われるし救おうとするけれど、信じない者は救わないし、救えない。

f:id:waltham70:20170204204217j:plain

「NO MUSIC NO LIFE」だったことは一度もなくて、音楽についてのこだわりは限りなく薄い。テケトーに誰かのおススメを聴いている。いちばん便利なのは、ジャンルさえ選べば、無限におススメがかかり続ける聴き放題サービス。選ぶことにリソース使いたくない人向けさ。

 

「NO BOOK NO LIFE」でも「NO LITERATURE NO LIFE」でもしっくりこず、「NO WORD NO LIFE」がいちばんしっくりくる。

 

ことばを使ったものに、サブもメインもなくて、ただ好きか嫌いかがあるだけ。読み捨て前提のフライヤーでも、じっくり読む人だもの。

 

指輪物語』がマストアイテムとされていた時、がんばって読んではみても、いまいちのめり込めなかった。あれは教養や人生の深みや機微みたいなものがわかってる人が読んだ方が面白いもので、人生経験が足りない人間には難解過ぎて面白さが理解できなかった。『指輪物語』をゆりかごに生まれた、面白いや楽しいに特化した、和製のファンタジー作品があふれていたせいもある。

 

ロード・オブ・ザ・リング』になって初めて、作品の真価や面白さに気付けた。

f:id:waltham70:20170204204215j:plain

よりわかりやすい、間口の広いフォーマットになって、改めて見直される作品は、きっとこれからも生まれ続ける。

 

スケールが大き過ぎて、スターウォーズクラスの技術力でもないと、その真価は海外に届かないだろうと思ってる作品が密かにあって、でもそんなのとっくに“その筋”の人たちなら、わかってることなんだろう。

 

ある世界を決定的に変えた人は、それまでのルールを変えたから憎まれもして、賞のような何らかの栄誉に輝くのはずっと先。

 

でもさ、その背中を追いかけた人、育てた後継者の数が、たとえ今は無冠であってもその人の偉大さを証明してる。

 

児童文学の系譜に連なるものが好きで、子どもに勧められないものの布教に携わる気持ちは、一ミリグラムもなし。

 

大人は、大人だけで楽しめばいい。リサーチ能力の高い子どもは、“壁“を築いても勝手に越えていくんだから、ほっときゃいい。壁を越えた後に待つ、怖さだけ知ってりゃ問題なし。

 

恵方巻を売る商業施設は、どこも常にない混みようで、献立を考えるリソースやイベント用の食は外注したい人多数なんだ。エンゲル係数が上昇してるのも、納得。“消えもの“にお金使っても惜しくない人が、それだけいるってことさ。

f:id:waltham70:20170204204212j:plain

これは、ご飯のかわりに「ひじき入りのおから」が入ったローカーボな恵方巻。来年店頭に並んでるとは限らないから、ついお買い上げ。

 

トレンドを考える人は大変だね。ごく当たり前の恵方巻を求める人たちは、長蛇の列まで作って、辛抱強く待ってたさ。ひねりが効きすぎたローカーボな恵方巻は、待ちもせずにサクッと買えた。列に並ぶことが、とことん嫌いなんだ。

 

お休みなさーい。

壁の向こうはこんな世界だった、『東ベルリンから来た女』見た

壁を壊すための苦労や苦闘が遠くはるかなる記憶になって、今また場所を替え、壁を築くとかなんとかやかましい。あの苦労はいったい何だったんでしょうね、お父さんお母さん。

東ベルリンから来た女 [DVD]

東ベルリンから来た女 [DVD]

 

 (Amazonビデオ入りしてた)

キャッチコピーは

東と西。嘘と真実。自由と使命。その狭間で揺れる愛。(amazon作品紹介より引用)

 内容は、だいたいこれで合ってる。状況を説明するセリフもナレーションもごく控え目な、言葉足らずの映画で大人向き。語られざることは観客自身の言葉で補えってことかいな。

 

舞台となるのは、旧東ドイツ領のトルガウという街。日本人的には馴染みのない土地だけど、「トルガウ」で検索すると、トルガウの戦いやエルベの誓いといった来歴がヒットする。ヨーロッパの人にとっては、桶狭間関ケ原みたいな場所っぽい。

 

フィクションの舞台に選ばれるくらいだから、そこにはきっとそれなりの意味がある。

 

トルガウは、プロイセンとオーストリアが、連合国軍アメリカとソ連赤軍が睨み合った場所。1980年という設定の『東ベルリンから来た女』で睨み合うのは、自由の象徴である西ドイツ側へ女を脱出させようとする側と、管理国家東ドイツにとどめたい側。さてヒロインの運命やいかに?

 

眉間にくっきり皺が刻まれた、笑わない女性医師バルバラがヒロイン。美人なのに、勤務する病院ではめったに笑顔を見せることもなければ、無駄口を叩くこともなく、孤立上等な態度でのぞむ、感じ悪い人。

 

ベルリン(←都会)の病院から左遷されてきたという経歴は、周囲にとっくに知れ渡っており、同僚のような上司のようなライザー医師を除けば、あえて彼女に近づこうとする者も居ない。

 

感じ悪いバルバラだけど、医師としての技量は高く、患者には義務を越えて献身的で、いい医師なんだ。

 

さてそんなバルバラは、自転車を手に入れ通勤や生活の足とするようになる。医師であっても分断された当時の東ドイツでは、自家用車は容易に手に入らないものだったのか。それとも、西側への移住を希望して左遷された彼女だからなのか。

 

いつでもどこでも自転車でチャリチャリ、時には電車を乗り継ぎお出掛けするバルバラの行動は、いまいち挙動不審で、謎めいている。静かな文芸作品は、時にすぴーと健やかな眠りへと誘うものだけど、謎めいたバルバラの行動のおかげで、睡魔に襲われることはなかった。

 

あら、バルバラってスパイなのか?東西の分断という政治的な状況下、政治犯を疑われてもしょうがない状況で、しだいに明らかになるのは、これは愛のお話だってこと。

 

笑顔を見せないバルバラが、とびっきりの笑顔を見せるのは、たった一人にだけ。

 

彼女と彼のあいだに何があったのか。

 

そこには一切触れられてないけれど、危険を冒しても彼女を救おうとし、救おうとする手を懸命に掴もうとするバルバラの姿に、ふたりの歴史が垣間見える。

 

なのに。。というラストに感じたのは、人類愛。あるいは博愛。あるいは人道という道。

 

ディープ・インパクト』を思い出したと書けば、わかる人にはわかってしまうネタバレではあるけれど、『ディープ・インパクト』と違うのは、壁はいつかは壊れ、分断にも終わりが来るところ。

 

そのチャンスはごく僅かでも、次の機会を待てるのなら、機会のない者に譲ることは、誰にでもできることなのか。

 

我さきにと、蜘蛛の糸に取りつく方が利口な生き方であっても、その生き方を選べない人もいる。まったく笑顔を見せず、孤立上等で生きる人が見せる愛、しかもごくさりげなく、葛藤を感じさせない行動なところがミソ。大きすぎる代償を伴っているのに、惜しむ気配を微塵も感じさせずに、強い。

 

強い人だから、捨てられる。

 

バルバラの決断を、喜ぶ人も居れば、悲しむ人も居る。彼女が大きな決断をするところで映画は終わるけれど、余韻もたっぷり。

 

壁が壊れ、分断に終わりが来た時、彼女はもう一度選ぶことができる。環境が変わっても変わらなかった関係は、バルバラが人道に基づく決断をしたことで揺らいだのか。新しい生活(そのままとも言えるんだけど。。)を選んだように見えて、その実まったくそうではないかも知れず、後日譚の方がとっても気になる。後日譚が、あったとすればの話だけど。

 

引き裂かれたことでかえって燃え上がった愛だったのか。それとも、永遠に続く愛だったのか。

 

人道に対して信念を見せた人の、選ぶ愛や愛情の対象は、人間臭く移ろいやすいものなのか否か。綺麗にまとめてくるから、つい邪推したくなる。「別にあなたのためじゃないんだからね!」という台詞を脳内補完したくなる、決まり悪そうなバルバラのラストの表情が、とっても人間臭くて、いいんだ。

 

フィクションはフィクションでしかないとはいえ、当時の雰囲気を知る助けにはなる。分断が終わったあとの世界は、『グッバイ、レーニン!』で垣間見た。

 好きスキ大好きチョー愛してる、な恋愛はどうでもいい人にもしっくりとくる、人間ドラマだった。

 

お休みなさーい。

備蓄食料で乗り切る、さば缶ドライカレー

ミニッツメイドの朝マンゴに朝リンゴ、カップでヤクルトに各種ヨーグルト、冷凍うどんにお粥にカップ麺。ついでにシュークリームやアイスクリームに、忘れちゃいけない甘酒にジョア。

 

ここ2~3日の間に食べたのはそんなもの。しょーもな。

 

しょうもないけれど、そんなものしか喉を通らなかったんだから、しょうがない。ちなみに「飲む点滴」甘酒をグビグビ飲んでいると、甘みに対する許容量が振り切れて、缶詰フルーツ(桃缶とか)がちっとも欲しくならない副作用アリ。重ね重ねしょーもない。

 

ロクなものを食べてないけど、そもそも寝るかスマホいじるか、Amazonプライム見るか、鼻噛むくらいしかしてないから、さして体力も消耗してない。消耗してないけれど、人間にはやっぱりたんぱく質が必要なんだ。というわけで、さば缶でドライカレー作ってみた。

 

さば缶だったら、買い物に行かなくても家の中に転がってる。

f:id:waltham70:20170201202912j:plain

【材料】

  • さばの水煮缶(200g程度のもの) 1缶 
  • たまねぎ 1/2個 
  • しょうが・にんにく 適量 
  • カレー粉 大さじ1 
  • トマトケチャップ 大さじ3
  • 水 1/4カップ(50cc)

f:id:waltham70:20170201202907j:plain

たまねぎもしょうがもにんにくも、みじん切りにする。中途半端にあまったズッキーニを発見したので、そいつも薄切りに。

f:id:waltham70:20170201202903j:plain

油を引いた鍋に、たまねぎもしょうがもにんにくもズッキーニも投入。

 

ついでにクミンシードを小さじ1ほど振り入れる。クミンシードがあると、いきなりエスニックでカレーっぽくなるお役立ちスパイス。

クミン シード カップ 50g

クミン シード カップ 50g

 

 

f:id:waltham70:20170201202859j:plain

カレー粉投入。基本レシピでは大さじ1のところ、多分大さじ3くらいは入れてる。スパイシーな方が好きだから。

インデアンカレー カレー粉 400g

インデアンカレー カレー粉 400g

 

 

f:id:waltham70:20170201202856j:plain

さばの水煮缶を、缶汁ごと加え、水とトマトケチャップも加え、中火で煮詰める。

f:id:waltham70:20170201202853j:plain

5~6分ほど煮詰めて水気がなくなってきたところで、完全に好みのブラックオリーブと、やっぱり中途半端にあまっていたミニサイズのモッツアレラチーズを加える。粉チーズや、仕上げにとろけるチーズでも可。チーズがあった方が、やっぱり美味しい。

f:id:waltham70:20170201202850j:plain

チーズが溶け切ったら完成。う~ん、実に美しくない。

 

ごはんに乾燥パセリを振って、さば缶ドライカレーペーストを乗っけて完成。

f:id:waltham70:20170201202847j:plain

見た目はさして美しくないけど、うまうま。

 

久しぶりに自分で作ったご飯に、胃が喜ぶ。結局ウチ飯に最適化されてる胃袋だから、面倒くさいけど、自分で作るご飯がいちばん口に合うんだな。面倒くさいけど。すっごく面倒くさいけど。

f:id:waltham70:20170201202844j:plain

あまったドライカレーペーストは、うどんと絡めてやきうどんにしても、トーストに乗っけても。元々はきょうの料理で見つけたレシピ。今の気分はトーストだな。明日こそは食パン買いに行こう。。

 

久ぶりのまともな食事、しかもスパイシー(←自業自得)なので、胃がシクシク( ;∀;)痛むけれど、明日にはもうちょっと回復してるでしょう。買い物行きたい&行かねば。ほんとは作りたいスイーツがあったのにさ。

 

お休みなさーい。

 

waltham7002.hatenadiary.jp

waltham7002.hatenadiary.jp

waltham7002.hatenadiary.jp

 

邦題はひどいけど、ハッピーとポジティブがギュギュっと詰まった『パパVS新しいパパ』見た

日本の場合、二地域居住は花粉症をきっかけに広がるのかも。かもかも。花粉症シーズンだけ花粉の飛ばない地域で働くことができたら、生産性も働く人の幸福度もアップするに違いない。花粉症とは無縁になって、幸福度は確実に上昇した。

 

1時間に一回くらいの割合で、頭痛~いとのたうち回っているけれど、別にインフルエンザじゃない。症状が落ち着くまでは薬でやり過ごすしかなく、昨日に引き続いて、難しいことはなーんにも考えたくない状態。

 

そんな時にお役立ちなハッピームービーを探していたら、大当たりを引いた。

 『パパVS新しいパパ』。邦題がひどいけど、ケラケラ笑えるコメディで、鎮痛剤よりよっぽどお役立ち。

 

子供に必要なのは、パパか父親か。

 

生物学上の父親と、母親と再婚した継父が、娘と息子、子ども二人の寵愛をめぐって争うお話。家庭的で、正攻法ビジネスで成功している継父は、客観的に見ればとってもいいお父さん。ところが子供は残酷なもので、たまーにしか現れず、面白おかしく甘やかしてくれる実の父親びいき。

 

見た目からしてワイルド&タフな実の父親ダスティと違って、継父ブラッドはどこから見てもいい人。人は見た目じゃわからないとはいえ、まだ小さな子どもにとっては、“自慢の種”が多いほど、ステキな親になる。

 

ダスティはワイルド&タフな見た目でカッコいい、ついでに面白くて愉快で、結構いい男なんだけど、じゃあそんなにステキな男性なら、どうして離婚したんですかね???

 

と、考えるのが大人。

 

愉快で話も面白い人だけど、「本当のこと」を決して言わない人に、子どもは預けられない。

 

子どもは不完全で飽きっぽくて、飴に弱くて素直に言うことも聞かない。おまけに自分たちに注がれてる愛情もきっちり理解していて、その愛情はまだ涸れることもないことを知っている。立場の強い子どもたちの、歓心をかおうと大の大人、ダスティとブラッドが大人げなくムキになるところがたまらなくおかしくてステキ。

f:id:waltham70:20170131235158j:plain

(これも飴の一種)

「子どもは愛すべきもの」という精神に貫かれていて、アメリカ社会でそこそこ成功を収めている人たちの、強固な本音も見て取れる。

 

不完全な生き物である子どもの相手を、自然にこなせる人間とそうでない人間だったら、さて、いったいどちらが優れているのか。

 

24時間×365日×子どもが大学なりなんなりに進学して子育てがひと段落するまでのなっがーい時間。飽かずに子どもの相手を、時には導き親としての役目を果たすのに適当な人物像について、大人はすでに最適解を得ている。経験則で。

 

ワイルド&タフでカッコつけたまま親業がつとまればいいけれど、大抵の場合はそんな風にいきっこない。

 

大抵の場合はそんな風にいきっこないことも織り込みつつ、でもね。。というエクスキューズつきでみんながハッピーになる大団円がとっても気持ちよかった。

 

ダスティとブラッドという好対照な二人は、あらゆる面で「違う答え」を出す二人。父親が一人だったら父親固定観念に縛られてしまうけれど、二人いれば、異なった視点が手に入る。

 

離婚も再婚も当たり前の社会は、一歩も二歩も先を行って、辛苦といったネガティブ要素からも頭ひとつ抜け出して、ポジティブな面を見つけるのが上手なんだ。

 

ダスティに幸運をもたらしたのは結局のところブラッドで、さっさとダスティに見切りをつけた妻のサラは、大人の女性だけあって、やっぱり見る目があった。

 

子どもたちもキュートで、すごーくリラックスできる、ハッピームービー。よかった。

 

お休みなさーい。

老醜に生きる往年の名女優が怖くてたまらない、『サンセット大通り』見た

今どきだと、邦画を見ずに洋画ばっかり見てる人は、変わりもんになるんだとか。趣味や好みが多様化した時代に、変わりものじゃない人って、じゃあどんな人さ?と、突き詰めて考えるのも面倒くさいので、今日も気分で好きなものを観てる。

 

昨日に引き続いて、頭痛が痛くて集中力が続かない。気楽に見れそうなAmazonプライムを漁っていて見つけた『サンセット大通り』で、主演のグロリア・スワンソン“顔芸“に引き込まれ、頭痛の痛みもしばし忘れたさ。

 グロリア・スワンソンといえば、『サンセット大通り』。『サンセット大通り』といえばグロリア・スワンソンと、セットで暗記してはいるけれど、その中身についてはよく知らね。

 

トルコ近代化の父が、ケマル・パシャことアタチュルクってことは暗記していても、その中身はグーグルさんに聞くしかないのとよく似てる。

 

映画史上に燦然と輝く名作。ストーリーも観客をドッキリさせるカメラワークも、さすがとしかいいようのない意外性満点で、古さを感じずに引き込まれた。

過去の栄光だけを糧として生きる忘れられたスター、ノーマ・デズモンドに扮したグロリア・スワンソンと借金取りに追われていた売れない脚本家ジョーを演じたウィリアム・ホーデンがサンセット大通り“での主役を務める。アカデミー賞受賞監督ビリー・ワイルダーがハリウッドの光と影を見事に活写した傑作。

Amazonの内容紹介より引用)

 借金取りに追われるジョーが、支払い滞り中のマイカーを取られてなるものかと逃走中に、とある荒れ果てたお屋敷に迷い込む。庭の手入れは怠っているものの、室内はゴージャス極まりないそのお屋敷の女主人が、グロリア・スワンソン演じる往年の名女優ノーマ・デズモンド。

 

現代風に言えば、承認欲求をこじらせたまま年食った女王様。若かりし頃の自分の写真や肖像画で、室内を飾り立ててる痛い人。ジョーが脚本家の端くれだったことから、映画界へのカムバック目指して“自分が主役”の脚本を執筆中のノーマに気に入られ、そのままツバメのようなヒモのような生活に突入する。

 

こじれた、あるいはねじれた人間関係は、第三者から見るとホラーそのもの。

 

『サンセット大通り』は、きらびやかでステキなばかりでもない、ハリウッドの光と影を描いた作品だけど、同時に純然たるホラーにもなっていて、ゾッとできる。なにしろグロリア・スワンソンが超コワイ。やることなすことコワ過ぎて、こんな人とは絶対にお友達になりたくない。

 

実生活でも当時「忘れられつつある女優」に片足突っ込んでたせいか、迫真の演技が真に迫り過ぎている。金持ちだから、お金バラまいて取り巻きを引き留めようとしたり、お金はあるけどいつまでもチヤホヤされたい女優の“老醜”も、くっきりはっきりさ。

 

マギー・スミスに、ヘレン・ミレンと、いくつになってもどこか可愛らしいおばあちゃん女優と違って、年とってもサロメのような官能的な役を演じたい、“業”に取りつかれたグロリア・スワンソンは、可愛く年取れない人。

 

彼女を増長させているのは、グロリア・スワンソンの忠実な執事で、この人もその生き方も相当ヘン。もしかすると、主要登場人物の中でいっちゃん変かも。かもかも。演じる、あるいは映画という“業”に取りつかれた人間の、どうしようもなく常人とは相容れない部分が、濃縮200%果汁みたいにぐつぐつ煮詰まってる。

 

で、この「どうしようもなく常人とは相容れない部分」こそ、ハリウッドの影の部分なんだな、きっと。

 

作中には、かつてグロリア・スワンソンと共演した名監督として、セシル・B・デミル監督も、実名で登場してる。この人も、『地上最大のショウ』や『十戒』にその名を残す、映画史上の有名人。マグナ・カルタを制定したのはイギリスのジョン王と同程度に、テストでは出てくるかもしれないから、マーカー引いてチェックしとく人。

 

無頼を貫いて成功する人もいるかもしれないけれど、セシル・B・デミル監督は、極めてまともな常識人として描かれる。老いたグロリア・スワンソンにも親切で、人としての器の大きさも感じさせる。

 

クリエイターとはいえ常識的なビジネスマンで、だからこそ「常識と相性よし」でオスカーにも輝き、ハリウッドの光になれたとも言える。

 

そうはなれなかったグロリア・スワンソンと、そのグロリア・スワンソンに目をつけられたジョーが、とことん光の当たらない場所に堕ちていく過程がホラー。

 

最初は居丈高だったグロリア・スワンソンが、ジョーがこっそり(でもバレてる)屋敷を抜け出すようになる辺りから、六条の御息所ばりにおかしくなっていくのもまたホラーで、あな哀し。ついでにあな怪し。

同世代の人間の笑い声が聞きたかった

(作中のジョーの台詞より引用)

 とは、屋敷を抜け出すジョーの台詞で、その感覚はまったく正しい。

 

過去にすがるしかない、意思さえ奪われた年寄りの“蝋人形“に囲まれて生きる暮らしは、どんなにゴージャスで贅沢なものであっても、精神が腐る。

 

ジョーの歓心を惹くために、時には道化役まで演じてみせる老いた女優の姿を正視できるようなら、もう手遅れなのさ。

 

この関係は、いつか破綻すると思う関係が、きっちり破綻するのは意外でもなんでもないけれど、その時のグロリア・スワンソンと執事こそが見もので、ホラー映画としての真骨頂が待っている。

 

人は、ここまで壊れることができるんだね。。と、見てはいけないものを見た気持ちでいっぱいになれる。

 

血がドバッドバッ!!!と飛び出すスプラッタ―よりも、よっぽど怖かった。

 

この世でいちばん恐ろしいのは、人が壊れるその瞬間さ。

 

お休みなさーい。

つむじ風

ニューヨークのケネディ空港に、入国禁止の大統領令に抗議する人がプラカード片手に押しかける写真を見て、昔読んだリーガルサスペンス(多分)のタイトルを思い出せそうで思い出せない。

 

よその国の司法システムなんてよくわからないけど、アメリカの最高裁判事には任期がないことだけは知っている。一度任命されたら終身在任、つまり死ぬまで最高裁判事でいられる。

 

思い出せそうで思い出せない小説では、高齢で意識さえ混濁しているような人がそれでも最高裁判事のままで、司法の機能不全を恐れる(あるいは怒る)人たちが、判事辞めろ(つまり死んでしまえということ)とデモを繰り広げていた。

 

大統領の任期は4年だけど、司法の最高決定機関である最高裁判事には任期がない。司法の牙城が崩れない限り、社会が根本から変わることはない。4年のあいだにつむじ風も吹きまくりできっと混乱するけれど、司法の方がもっと偉いんやで。。と、ぶん殴るシーンもあるのかもしれない。かもかも。

 

と、思ったら空席のままの9人目の最高裁判事は、今週中に現政権により指名予定だってさ。おぉコワ。つむじ風、ハリケーン並みになるね。

 

この程度のことは、キーワード放り込んで、パズルを解くみたいにたどっていけば、なんとなくわかる。

 

なぜ前政権中には、空席が埋まらなかったのか。キーワード放り込んだだけでは出てこない、そういう読み物が読みたいやね。でまぁそういうことを、目につくような場所にきっちり書いてるサイトや著者が、信頼に値するってことで。

 

終日頭痛が痛くて、往生した。鎮痛剤が効いてる間は何とかなるけど、明日は直ってるといいな。頭痛が痛くて集中力が続かないと、しょーもないことを考えてしまうから。

 

ニューオーリンズ・トライアル』もも一度見たいと思ってるんだけど、動画にはまだなってないのが惜しまれる。

 

お休みなさーい。