クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

初学者にもとっても親切な、『知っておきたい情報社会の安全知識』読んだ

初学者にもとっても親切な、『知っておきたい情報社会の安全知識』読んだ。

知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)

知っておきたい 情報社会の安全知識 (岩波ジュニア新書)

 

 インターネットなどのITまわりを「正しく怖がる」ための解説書。ジュニア新書ということで、子供にもわかりやすいよう書かれていて、初学者、情弱な大人が読んでも読みやすくてわかりやすい。

コンピュータやインターネットの発展は、高度な情報社会をつくりあげる一方で、かつてない事件や事故を引き起こす存在にもなっている。ITを基盤とした情報社会を、どうしたらより安心・安全にできるのか。また私たちの対策は何か。そのために必要な知識を、現実におきている事例をとりあげて、ていねいに解説する。

Amazon内容紹介より引用)

 日本ではWelqに代表されるキュレーションメディアによる著作権侵害が大きな話題となり、アメリカの大統領選ではデマニュースによる世論の撹乱が問題となった2016年。

 

インターネットを通じて得られる情報の信頼性が、揺らぎまくった一年でもあった。かといって、今さら新聞や雑誌のオールドメディアにはもう戻れない。ネットに触れずに情報を得るのは、非現実的で非効率。

 

ITあるいはICTの世界の人は、IoTやAIが生活のすみずみにまで行き渡る未来を夢見ているけれど、同時に悪意ある人物により悪用されることも想定済みで、安心感もいや増した。

 

触れずにはおれないインターネットとコンピューター(スマホ含む)を、安全に使うためのTIPSや実用的なお役立ち情報が、盛りだくさん。

 

なかでも「見破られにくいパスワードの作り方」は、パスワードの設定に悩む人に特にお役立ち。どの安全対策も、“悪意をもってインターネットを使う人の存在を前提としている”ところが、たいへん実用的なんだ。

 

インターネットには、明確な悪意をもって活動している人もいるから気をつけなさいとは言うものの、一体何にどう気を付けりゃいいのさという疑問に、微に入り細に入って答えてくれる。

 

著者は、東大教授でICTセキュリティの専門家。なぜか歌集も出している“うた心”のある人で、初学者でも読みやすい文体なのはそのせいか。安全対策を謳う以上、避けて通れない、守るべきインターネットやコンピューターの仕組みについての説明も巧み。

ITの世界では、小さいことはいいことだ(本文より引用)

 なんて知らなんだ。すまんかったな、ITの人。いつもダラダラした、役にも立たない長文ばっか書き綴って申し訳ないけど、書きたいんだ。

 

「最善は尽くすが補償はしない」ベストエフォート型で運用されてること。にもかかわらず、性善説に立って作られた成り立ちから、性悪説に転換することもなかなか難しいことが、よくわかる。

 

操作を「数」で表すのがITの世界で、10進法の“172”が2進法では“10101100”になり、

ある桁の数字が2になるごとに、上の桁の数字がひとつ増えるという規則にしたがう(本文より引用)

 と解説されても、こちらは文系にとってはわかりにくい。

 

ところが私には「わからーん」と訴えれば、正月からわざわざ馬鹿にでもわかるように解説してくれる人がいる、便利。ついでにソフトは人間に近い言語(プログラム)で書かれ、プログラム言語の中には機械により近いマシン語もあって。。というプラスアルファの情報まで入手できて、ますます便利。

 

知恵袋で「これはどういう意味ですか?」と聞くこともない。恵まれてる。

 

ITの世界が性善説で成り立っているのは、恵まれてない人にもチャンスを与える、機会の平等のためでもあるんだ。

 

もしも。今はまったくITとは無関係の仕事をしているけれど、ちょっとプログラムの勉強でもしてみたいなーと思ったものの、身近には「師」となる人物が見つけられなかったら、その人はいつまでたってもワナビーから抜け出せない。

 

知恵袋のようなナレッジサービスが出来た時、本当に便利なものが出来たと思った。割と特殊なことをやっていて、誰にも聞くわけにもいかず、悶々と一人で悩んだこともあったから。

 

信頼できる情報を持ってきた人から、教えてあげるかわりにこれお願いと頼み事でもされたらどうしましょ。断れるのか?よく知らない人との対面でのコミュニケーションの怖さは、そこにある。

 

信頼できる人を見つけるより、信頼できる情報を見つける方が、本来は早くて安全であるべきなんだ。そして、信頼できる情報に早くたどり着きたいと焦る人に向けて、悪意ある人物が罠を仕掛けるのが地獄インターネットの負の側面。

 

危険なウェブページに誘導する手口は枚挙にいとまなしで、検索サーチの脆弱性をハックしたWelqの例は、最も新しい例としてインターネット史に刻まれることになってしまった。あーあ。

 

この本の中でもっとも有用だと思ったのは、「悪意ある人物の具体例」で、その具体例として、ドストエフスキーの小説『悪霊』の主人公スラヴローギンを挙げている。

 

スラヴローギンは、すべてに恵まれた若者。家柄も良ければ頭も良く、容姿端麗なスポーツマン。性格破綻者というわけでもないのに、誰かを痛めつけることが大好きで、冷静に冷酷に、獲物を追い詰めていく。

 

厄介なのは、彼はサディストではないこと。傷みに悲鳴をあげる人の声に喜びを感じる倒錯性は無さげで、生きることに飽きてることがすべての原因っぽい。思想も使命もないところが、なおさらおっかなくて厄介な奴。

 

そんなに退屈で生きることに飽きてるんだったら、自分を殺せよ臆病者と思ったら、小説の最後ではちゃんと自殺してた。あぁ良かった。という恐ろしい人物がネットの向こうに居て、無作為にターゲットを物色していたら、善意を前提に運営されてるサービスは、たまったもんじゃない。持たない。

 

2010年に発行されたこの本では、スマホアプリについては言及されてない。スマホアプリの全盛により、パソコンを前提としたかつての人気サービスはみな斜陽になった。利用者の世代交代を否応なく推し進め、サービス運営者が関与する部分が多くなった。

 

本書も危惧してた通り、お金儲けに走り過ぎるとモラルと教養に欠けた人物が跋扈するようになり、甚大なモラルハザードが起こることを思えばしょうがない。

 

誰にでも開かれたオープンなインターネット社会か、それともごく少数の訓練された者しか恩恵を受けられない、クローズドなインターネット社会か。

 

バラク・オバマさんも言ってたけど、

 “テクノロジーにどのような価値観を組み込むべきか”が、これからは問われる時代。

wired.jp

今が過渡期で、万人にとっての有用なテクノロジーを実装するには、「わからーん」で投げ出すユーザーも、そんなお馬鹿ユーザーとのコミュニケーションを「やってられねー」と投げ出すエンジニアでも、ダメなんだ。

 

悪意や誹謗中傷、あるいは悪質なデマの発生源も、以前とは比較にならないほど素早く見つけ出されるようになったインターネットの世界は、本来もっと安全なはず。

 

新聞や雑誌といったオールドメディアには今さら戻れず、テレビがネットで話題のニュースを放送するほどなんだから、ネットの情報が信頼できないと大勢が困ってしまう。

 

トラブルに巻き込まれた時に、相談できるネットの窓口リストもついていて、ほんと親切なんだ、この本。

 

特定の個人や企業のためではなく、万人にとっての良識をより多くに届けたものがマスメディアとなり、よいコンテンツになる。くらいの気持ちでいた方が、これからはいいのかも。かもかも。担い手が誰だとか、歴史のあるなしにカンケーなく。

 

デマニュースによるPVでアフィリエイト収入が得られてしまい、国境さえ越えて悪意を持つ込む人間を、どう排除していくのか。理論的支柱がないと、やってらんないでしょ。

 

現在のシステムでホワイトサイドにとどまろうとする初学者は、暗記するレベルで読んだ方がいいと思えるほどに、有用でした。

 

最後に、自分にとって未知の分野で信頼できる人を見つけるポイントのひとつは、「教科書を書いてる人」を見つけること。参考書でも、攻略本でもなく、できれば大学の講義にだって耐えられそうなものがベスト。

 

書く人にとってのメリットを考えた時、教科書は割りに合わない。割に合わなくても書くのは、後進となる多くの人のメリットを考えてのことで、より公共性が高いから信頼度もマシマシ。最前線で活躍する、業界のトップリーダーが書く時間を捻出するのは大変なんだけどね。

 

あるいは、子供のために書かれたもの。どちらにしても、暗黙知をより多くの人に届けようとする試みは、たいてい良心的なのさ。

 

お休みなさーい。

抱負、特になし

明けましておめでとうございます、と使うにはやや間抜けな二日遅れ。

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三箇日だけど平日で、ほんとに平日なのかとカレンダーを二度三度見した。祝日っぽいのに平日で、平日割引もしっかり使えてなんだか得した気分。

 

ブログはWeb Logの略で、記録・日記あるいは私的ニュースコーナーとして使われるウェブページとのこと。個人的な意見表明や会社の活動報告

(坂井 修一著『知っておきたい 情報社会の安全知識』より引用)

 として使っても可とのこと。今後はそこに、通販カタログの機能も追加されるのかしらねぇと、ここで渋茶すする。大福茶、そういや飲み忘れてたな。

 

正月はテレビと仲良し。

 

正月スポーツの王者は箱根駅伝に決まりで、箱根駅伝があるかぎり箱根温泉も末永く安泰だね。戦前からあるものを、今さらほかの土地が真似したところで、どないもこないもなし。

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北海道という土地柄のせいか、正月とはいえ晴れ着、お着物姿の人は滅多に見かけない。そういや車にしめ縄を飾る風習も、いつの間にか廃れたね。しめ縄を飾った車が多数走っていれば、それは昭和の風景。

 

門松もカジュアル化して、商業施設くらいしか、今や飾ってるお宅はなし。親戚一同が揃っての大掃除、餅花作りに餅つきから、思えばすっかり遠くへ来たもんだ。

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さて元旦のテレビや新聞では、ポピュリズム大衆迎合)に注意せよと呼びかける、知識人のご高説をイロイロ賜りまして、たいへん結構なことでございました。

 

ポピュリズムの時代は価値観が逆転する世の中で、流しのギター弾きが流しのクラシック楽器弾きに変わる時代。サブカルチャー寄りの人が大所高所からモノを語り、ハイカルチャーが馬鹿にされるんだ。

 

少し前、知識人や権威が権力を握っていた頃とは、立場がすっかり入れ替わるのさ。私たち、入れ替わってるぅ~と騒いだところで、こちらも今さらどないもこないもならず。

 

入れ替わることが目的の人たちにとっての黄金時代の到来で、迫害されそうな人たちが声を揃えて警告を発してる。そう考えるとしっくりくる。

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1973年から1974年生まれあたりが、18歳での受験人口が最も多かった世代か。今後日本の人口は増えそうもないから、日本史上もっとも子供の多かった世代でほぼ間違いなし。

 

この国で最も数の多い“大衆の子供”に、優しくしてくれたのは、楽しませてくれてモノを考える力や未来の足しになる事を教えてくれたのは、さて一体誰だったでしょうか。

 

その答えは人によって違うけれど、子供の頃に優しくされた経験は、大体において忘れ難い。ボリュームが多かったから、金蔓とばかりに安易な娯楽を提供してるだけのモノもあったけどね。

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そこからどれだけ遠く離れて暮らしていても、生まれた場所に人を縛り付けようとするのは中国の戸籍制度にも似て、非民主的。生まれた場所よりも、住みたいと思う場所に移動する自由を保障している方が民主的。

 

明るい方が、民主的な場所により近いのは間違いなくて、“お日様の下では語れない”お話にはキョーミなし。

 

お休みなさーい。

大晦日の過ごし方

ロゼのシャンパンがいまいち美味しくなかったので、ゆずはちみつシロップ(←冷蔵庫にあった)を混ぜてみたところ、「大人っぽいグレープフルーツジュース」みたいな味になった。

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フレッシュグレープフルーツやその他フルーツをぶちこんだら、サングリアっぽくもなるかも。かもかも。

 

うっかり冷蔵庫で冷やすのを忘れていたシャンペンの瓶も、ベランダの雪で冷やせば無問題。雪国ならではの芸当って感じで便利さ。

 

年末のデパートや商業施設は、明日も営業しているところが多いせいか、混んではいるけどうんざりするほどでもなかった。とはいえそこは室内外の気温差が激しい札幌のこと。熱気と、常よりも多い人いきれですっかり気分を害し、ご馳走制作意欲も急降下。

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結局、ほとんど出来合いのもので済ましてしまった。

 

パングラタンを作るつもりが、乳製品のこってりに耐えられそうになかったので、寿司にチェンジ。海産物王国だもの。どこのお寿司も手頃で美味しそうなんだ。

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作ったのは、サラダ(ほうれん草とブルーチーズとくるみ)とアワビステーキのみ。ちょうどタイムセールが始まったばかりで、2割引きで国産アワビが手に入った。ラッキー♪

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紅白歌合戦はスルーして、ホビット三昧で過ごす大晦日。吹き替えだと、テケトーに聞き流せるからよし。

 

今年一年を振り返ると、とにかく「異常」な一年だった。

 

例えば、規則性をもって定期でかかってきた迷惑電話の数々。あるいは、静かに本でも読むかと立ち寄ったカフェで、トマトと呼ばれて静寂をぶち壊しにされたり、あるいは旅先で旧友と会っていると、「美瑛サイコー!富良野サイコー!」と言い出す女性二人組が隣に座ったりと、珍事には事欠かなかった。

 

なんだこれは???と思う出来事があった時は、逐次脊髄反射的にtwitterでつぶやいて記録に残しておいたので、探せばもっと見つかるはず。

 

事態を俯瞰した時に浮かび上がるのは、ただひたすら「醜い」構図。醜いことが平気で出来る人が関与してることは、大抵ろくでもないことと相場はきまってる。

 

醜いことも、醜いことがヘーキで出来る人も集団もキライさ。

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(クリスマスの使い回し疑惑も濃厚な、正月用プチブーケ)

来年は、心穏やかに過ごせる年になることを祈ってる。新年くらいはスマホ断ちして、3日からボチボチ始動する予定。

 

お休みなさーい&よいお年を。

2016年に書いたブログ記事の振り返り

年の瀬とはいえ、平常心で暮らしてる。明日くらいはご馳走っぽいもの作るけど、普通の週末とまったく変わりなし。変わり映えしない毎日を愛してる。

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年の瀬らしく、今年書いたブログ記事の振り返り。とはいえさしてたくさん書いたわけでも、熱心に書いたわけでもない。それ以前に書いたものに比べると、明らかに熱量に翳りあり。

 

過去記事を読むと、自分にしかわからない今年の出来事が、行間からくっきりはっきり浮かび上がってくる。どちらかというと、イヤなことが多かった一年。特に後半になるほど、その傾向が顕著。書くものにもはっきりその傾向が表れていて、個人史を容易に振り返れるブログの面白さ、良さは、ここにあり。

 

ほんとは外したくなかったけど、はてなスターも今年外した。目的外使用と思われる人が、ウザくて嫌になった。何かしらの言論やメディアに携わる人で、好き勝手に書き散らかしてる素人が目障りだからと攻撃するような人は、メディアや言論にはまったく向いてないからやめた方がいいよ、ほんと。

 

今年書いたものの中で、好きなエントリーをピックアップしてみた。

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  時流もSEOも無関係に、好き勝手に書き散らかして、存分に言語化できた時が、書いていてもっとも気持ちがいい。すっきり。

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説明しづらく言語化しにくい題材を、語って聞かせるように、語り尽すために書いている。ほとんどは自分のため。どう書くか迷いながらも書いていると、パカパーンと突然閃く時があって、パカパーンとの出会いのために書いているといってもいい。100%趣味の世界。

 

コピペしても役に立たない、無意味な文章を綴ることに、至上のヨロコビを感じてる人。ほっほっほ。

 

著作権侵害でキュレーションメディアが揺れた一年。はてなブログもそのうちメディアとなるのか、プラットフォームのままなのか。

 

先行きはどうなるのか知ったこっちゃないけど、個人が誰にも邪魔されずに個人の意見を書く場所がある限り、まぁなんか書いてるでしょう。

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お休みなさーい。

写真撮影不可の羅漢寺は、面白おかしさ満点のお寺だった

年末に来る地震は迷惑度も5割増しで、取材に答える人の優しさが不思議。プライドだけはエベレストより高い人は、謝罪を受け入れない相手も、恥をかかせた相手のことも決して許しはしない。性格悪っ。性格の悪い人には、「身から出た錆」という名言をプレゼント。悔い改めよ。

 

年の瀬をガン無視して、マイペースに耶馬渓旅行記の続き。

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 青の洞門をウロついたあと、目に飛び込んできた奇妙な景色。あれはいったい何だ???

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結構な急斜面に建ち、山を切り開いたとおぼしきお寺の名は、羅漢寺。大化元年(645年)まで起源を遡ることができる、現住職で27代目という由緒あるお寺。こんな辺鄙な場所にあるのに、戦国時代には戦禍に巻き込まれてるところが歴史の不思議。

 

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リフトで楽して拝観することもできるけど、苦労の多い道が極楽浄土への近道と思う人のためか、急峻な山道を登って拝観することももちろんできる。

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羅漢寺で途中下車可能。そのあとは山頂まで行くことも、羅漢寺で下車することも可。

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写真で見るより切り立った斜面で、特に山頂に近くなるほど角度も急。高所恐怖症の人にはやや厳しい道のり。細く険しい山道を行くか、頼りなげなローテクをたのみにするか。どっちもどっちな選択ではあれど、踵のある靴を履いていてもダイジョーブな、ローテクを頼る。

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たどり着いた羅漢寺は、写真撮影禁止。

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たいへんフォトジェニックかつインスタ映えする光景が山盛りではあれど、なんせせまーい山寺。写真を撮るのに夢中になる人が増えれば、事故も多発しそうな場所。なにより聖域だ。

 

ということで、ネットにはあんまり情報は落ちてない場所だけど、とってもユニークで、昔の人のねじのぶっ飛び具合がよーくわかる場所だった。

 

だいたいこういう僻地にある寺院というのは、往時の人にとっては数少ないエンターテイメント施設でもあったりするので、いろいろぶっ飛んでる。

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こんな所まで掘らなくてもええで。こんな所にこんなもの作らなくてもええで。というブツがいっぱいのワンダーランドになってる。羅漢寺なので、羅漢像もいっぱい。しゃもじもいっぱい。しゃもじは絵馬の代わりだそうで、“願い事を救う”んだって。はぁさようですか。。

 

穴掘ったり、庭園作ったり。龍の石像もあり。

羅漢寺に攻めあがってきた時、この龍の目から光が発せられ、これにより将兵は力を失い、寺は焼き討ちをまぬがれたといわれます。

http://www.rakanji.com/ 龍の石像 より引用)

 キリシタン大名大友宗麟の攻撃を、その龍が退けたとか。こういう与太話大好き。物語、あるいは伝説の根源あるいはデマの根源に触れてるようで、笑える。

 

こんな山まで、攻める方も寺を築く方も、ご苦労様なことで。という感想しか出てこない、見晴らしのよさ。防御力、大事ね。

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(山頂の展望台から見た景色)

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(山頂の庭園? ちょっとした広場になってた)

青の洞門もそうだけど、昔の人の執念恐るべし。

 

よそにあってうちにはないから、うちにも欲しいという、他者や他の地域との比較で生まれたものでなく、ここでなければならなかった。ここに寺を築くという執念、一歩間違えれば怨念が、敷地内の隅々にまで行き届いていた。

 

僻地にあるユニークな寺社仏閣は、この場所に築くという執念込みになってるから、今見ても面白い。技術が稚拙な分は情熱でカバーで、大量の羅漢像のように物量で勝負したり、世界もびっくりなお堂建築で勝負したり。何と闘ってたんだ。。という情熱の残滓が、ヘタウマやブスカワイイに通じる、アンバランスな魅力になってる。

 

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これは石造りの眼鏡橋耶馬渓橋(オランダ橋)。現在でも普通に車が通行できるところに、いちばん驚いた。

 

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中津は、お城もある旧城下町だから、名所旧跡のたぐいが京都ほどではないにせよ、思いがけずにイロイロ残ってる。1世紀前は荒地でしかなかったであろう、北海道の景色を見慣れていると、歴史の重みが感じられていい。

 

期待しないで行くと、楽しめる。桜の木もチラホラあって、桜の季節もまた、よさげだった。

足を運んでみたら、意外と見るものがあって喜べる系の場所に、来年も行ってみたいもの。

 

お休みなさーい。

日本新三景のひとつ、耶馬渓に行ってきた

50年ぶりの大雪による混乱で、怒号さえ飛び交ったという新千歳空港。定刻通りが無理難題となる雪のシーズンには、お仕事ならいざ知らず、飛行機の旅は避けるのが吉。天候に文句つけるほど、不毛なものはなし。

 

というわけで、雪が降る前にブーンと飛行機に乗って出掛けてきた。九州まで。

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福岡経由で大分へ。着るものに散々悩んだ挙句にダウンが入ったショートブルゾンを着ていったけど、九州は上着がいらないくらいの暖かさ。それがわかっているから、冬場に遠出するのはイヤなんだよ。。

 

とはいえ上着なしで札幌~空港間を、凍えながら過ごすのもイヤで、“着るものに困らない“エリアへの旅行が、もっともストレスレス。

 

紅葉がまぁまぁ見頃の時期だったので、大分での紅葉の名所、耶馬渓へと行ってみる。ここに行ってみたぁ~い!!!と熱望したわけでは特になく、どこかいいとこないかしら?そういやまだ耶馬渓に行ったことなかったね、という消去法で選んだ場所。

 

紅葉の名所だけあって、地元の人で賑わってました。

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耶馬渓に行ったとはいえ、予想外の人出に恐れをなして、深耶馬渓と呼ばれる奥地までは行かず。耶馬渓のさわりと言っていい、本耶馬渓のあたりをウロウロしてきた。

 

耶馬渓で名所といえるものは、耶馬渓橋・競秀峰・羅漢寺・青の洞門くらい。

 青の洞門近くの駐車場に車を停め、徒歩で観光する。オンシーズンとあって、決して広いとはいえないエリアなのに、観光客がうじゃうじゃ。(←自分もその一人ではあるけどさ。。)

 

観光バスに乗ってやってくる外国人観光客グループも居て、複雑な心境。自分が外国人観光客ではるばるここに連れてこられたら、結構ムッとするかも。。

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(お天気はイマイチだった。。)

知らなかった魅力発見系の場所だから、ものごっつい期待して来る場所じゃないと思うのよ。個人的にはかなり面白かったけど、はるばるコレ目当てに来る場所じゃないのよ。期待せずに来て、意外とよかったね♪と喜ぶ場所なんだ、どう考えても。

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今どき、『恩讐の彼方に』で、あぁとわかる人は5千人にひとりくらいで、読んだことさえある人は1万人にひとりくらいか? 青の洞門の入り口付近には菊地寛の肖像と、禅海和尚というお坊さんの像が鎮座してる。菊池寛も、誰???と思われながら大勢の観光客にスルーされてるんだろうな。。時代や。

恩讐の彼方に

恩讐の彼方に

 

 険しく危険な道しかないことに衝撃を受けた禅海和尚は、当地の住民のために洞門(トンネル)を掘ろうと決意。30年かけてノミと槌という超ローテクで掘り上げた、ありがたーい洞門だそうな。実のところ禅海和尚は、資金集めに奔走してたらしいけど。

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恩讐の彼方に』では、周囲の静止も聞き入れず、鬼気迫る様子で禅海和尚がトンネルを掘り進める姿が描写されていたけれど、びっくりするほど心が動かされなかった思い出が蘇る。。

 

期待が大き過ぎたのか、ローティーンには理解しがたいだけだったのか。感情が動かされるには、経験が足りなさ過ぎたのか。多分、今さら読み返すことはないな。。

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ここは『恩讐の彼方に』で一躍有名となった場所、言ってみれば聖地巡礼のはしりか。小説が何かのブームの火付け役だった時代が、確かにあったんだよな。火付けとはいわないまでも、ステマ的なこともやってるし。

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東郷平八郎揮毫 日本新三景碑。偉くなる人は字の練習した方がいい、マジで)

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小説が担ってた役割が、マンガに変わってアニメになって。さて、ステマの次の主戦場は、一体どこになるのやら。人を動かすことのできるメディアにお金、広告費が投入されるんだね、いつの時代も。

 

スマスマが始まった頃友人が「料理、自分で自炊できる男が増えたら、またひとつ結婚する理由が減って、結婚しない男が増える」と言っていた。むしろ歓迎するように。金持ちでイケメンで学歴も職歴も“履歴書美人”で、どこに出しても恥ずかしくない、ストレートの男性。大変おモテになっていて、モテることにうんざりもしていた。

 

経済的に自立していて、身の回りのこともすべて自分でできれば、結婚しろとうるさく言われない未来を待ち望んでた。ま、結局結婚したんだけど。何でも自分で出来る、何でも自分が持ってる人は、愛情オンリーで相手を選べるから結構なことで。

 

大勢の人を幸せにしてきた人が、幸せそうな世の中の方がいいやね。世の中に出回る愛情の総量も、その分増えるから。

 

お休みなさーい。

戦わない者がヒーローになったら困るの誰だ?『笹まくら』を読んだ

戦争によって日常が浸食されていく、『この世界の片隅に』や、望まないまま戦場に送られた兵士を描いた『永遠の0』など、戦争を描いた作品は数知れず。古今東西戦争をテーマにしたフィクションは数あれど、その中でもマイノリティ中のマイノリティを主人公にした小説『笹まくら』を読んだ。

笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)

 

 丸谷才一による、1966年初版のふっるーい作品。小説の主人公となるのは、徴兵を忌避し、戦時中は旅人となって各地を旅して回ることで、官憲(何だかなぁと思う言葉だけど、他に適切な言葉も思いつかないのでとりあえず)の目から逃れた青年。

 

戦争をテーマにした作品は数あれど、なぜ戦わなかった“徴兵忌避者”はマイノリティ中のマイノリティのままで、現在でもヒーローになり得ないのか。英雄になり損ねた青年の主張は、“戦わない者がヒーローになっては困る大人の事情”を完璧に看破していた。

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(アメリカ産のあん肝。そんなにお高くない、むしろチープ)

徴兵忌避者なのに、モテる男

物語の始まりは、戦後20年経ったとある私立大学から始まる。大学で、教員ではなく職員として働くおじさん、やや窓際ポストの浜田庄吉が主人公。やや窓際ポストながら、職務には精通していて、真面目で勤勉。上司により引き合わされた、若くてカワイイ奥さん持ちで子なし。夫婦仲もたいへんよろしく、艶っぽいお布団の中のシーン多し。

 

風采の上がらないキャラなのに、インテリ教員ウケも良ければ、なぜか女性にも妙に好かれている。なぜだ。

 

なぜ?と思う彼のルーツを探っていくと、東京の医者の息子として不自由なく育ち、なのに徴兵忌避者として全国を放浪した過去に突き当たる。

 

インテリで決して下品な人ではないのにワイルドなのは、そのせい。人目を忍ぶ必要があったから観察眼が発達し、相手が望む行為を見抜くのも上手で、いざという時の行動力もある。そりゃモテますわ。

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好き嫌いの別れそうな文体が、かえってクセになる

小説は独特の文体で書かれていて、目が慣れるまではちょっと苦労する。

 

誰かからもらったお土産や何かをきっかけに、過去にその地を旅したことを思い出すことは、きっと誰にでもある。『笹まくら』では、大学職員浜田庄吉の物語が、突然、徴兵忌避者杉浦健次の物語に切り替わる。章ごとといったわかりやすい形ではなく、いきなり次の行から、話が飛ぶ。

 

視聴者に断りもなくポンポン画面が飛ぶのは、映像表現ではよくあること。シーンが切り替わる前にいちいち、「はい!ここから過去の逃亡シーンに飛びまーす!」なんてやらないのと一緒。映像表現では当たり前のことを、文芸、文字の芸でも再現してるだけと思えば、違和感もそのうちなくなる。

 

徴兵忌避者となった杉浦健次は、官立高等工業卒というバックボーンを生かし、ラジオや時計の修理をして生計を立てながら、全国を放浪する。そのうちそれでは食い詰めるようになり、「砂絵師」という子供相手の露天商にジョブチェンジする。砂絵と言われてもピンとこないけど、サンドアートと思えば多分間違いない。

マイアートコレクション 砂絵 富士山
 

 道端で子供が喜びそうな絵を書いてやり、砂絵セットを売りつけるお仕事。娯楽の少ない時代だからこそできた、おショーバイって感じ。

 

砂絵師として放浪していた杉浦健次は、阿貴子というバツイチ女性と知り合い、行動をともにするようになる。戦況の悪化とともに砂絵師の商売も危うくなると、阿貴子の実家に内縁の夫のような立場で転がり込む。

 

徴兵された健次と同じような青年たちが、古参による新人いじめや、飢餓やあるいは戦傷で心身ともに傷ついていたのに、逃亡者である健次は、陰惨な暴力とも深刻な飢えにも悩まされた気配なし。

 

勇敢とは言えないまでも、とにもかくにも戦場に立つことで、同胞が大いに傷ついていた頃、健次は女性とイチャイチャしてた。

 

イチャイチャ以外、することなかったのか?というくらい、女性とたいへん仲睦まじかった記憶が濃厚で、同胞から妬まれること必至。飢餓で苦しんだ気配もまったくなさげで、戦時下の同胞と共有できそうな共通体験も、まったくなさげ。

 

戦後20年経ってもその溝は埋まることなく、ふとしたきっかけで明るみになった健次時代の徴兵忌避という過去は、戦後も浜田庄吉の生活を支配する。悪い方へ。

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(アボカドのオーブン焼き。チーズとの相性ばっちりで美味しい♡)

喪失体験は、必ずしも成長に寄与するとは限らない

浜田の徴兵忌避者という過去は、平和な大学組織の中でおもちゃにされる。面白おかしいネタとなって噂の的となったり、学生新聞や出世競争の具にされたりと、ここぞとばかりに足を引っ張られてしまう。彼の大学でのキャリアが台無しになるほどに。

 

浜田のキャリアを台無しにする人たちは、だいたいが戦争体験者。喪失体験は人間を成長させるエンジンとなるはずだけど、飢えや娯楽の欠如といった共通の喪失体験は、戦争を経験した人たちの人的成長にはまったくカンケーなかった。

 

国と国との戦いに明け暮れた後は、誰が出世するかの競争に明け暮れていて、どこまでいっても競争大好きで、戦いが大好きなんだ。バカじゃないの。

 

浜田を援護するのはやっぱりインテリ教員で、彼らインテリは、教養もなく人権意識に乏しい人間が権力を握った時、いかに横暴になるか、戦争を通じて体感してる層。古参による新人いじめという軍隊の悪習は、戦場に行かなくてもわかるものだから、徴兵忌避者として逃げ切った浜田に敬意を持っている。

 

逃げられるものなら、誰だって逃げたかった。でも、逃げられない人がほとんどだった。

 

難事業を成し遂げた人は普通は称賛されるもので、戦後すぐの頃は、浜田も誇らしげに「徴兵忌避」と履歴書に書き込んでいた。20年も立つとすっかり風向きが変わり、徴兵忌避者は、マイノリティとして蔑まれることとなる。なぜだ。

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(牛肉とトマトを甘辛く煮て、シソと絡めた混ぜご飯。簡単だけど見栄えもする、ごちそうっぽいレシピ)

時代の空気、あるいは風向きは簡単に変わる

浜田あるいは健次は、決して熱血漢というキャラじゃない。医者の息子というインテリなので熱くなることは少なく、総じて理詰め。理詰めで、徴兵忌避という道を選んだ。

“国家というものは無目的なものだ”

“元来、無目的なものだから、維持してゆくことが非常にむずかしい。内的な緊張……党派の争いとかが起こりやすい。それを処理するためには、外的な緊張という手段しかない……”
“挙国一致内閣を作るために戦争を起す。あるいは戦争が始まりそうな気運にする……”

“結局、堺の言うとおり、国家が悪いんだということになっちゃったね。資本家でも、政治家でもなく、国家という、まるでお化けみたいなもののせいで、ぼくたちは兵隊になって……”

(『笹まくら』本文より引用)

 そこまで見抜いていたのに、どうして戦後は「組織の兵隊」となったのか。

 

私立大学とはいえ、そこは組織。組織の兵隊となってしまったら、やっぱり何らかの戦場に立たされる。

 

組織の兵隊だから、浜田には若くてカワイイ妻があてがわれ、卒業生ではない傍流とはいえ、理事という権力者から目をかけてもらえた。浜田が組織の兵隊らしく、組織のために戦ってさえいれば、徴兵忌避者という過去にも関わらず、浜田の将来も安泰だったかもしれない。

 

権力者の庇護も若くてカワイイ妻も、いざという時の保険で、浜田が2度目の徴兵忌避を行った時、組織のために戦わなかった時、すべては逆回転する。

 

浜田は、健次として放浪していた時の阿貴子との逃避行を、何度も回想する。回想シーンはいつも素晴らしく美しく描写されていて、二度と戻らない日々だから、ことさら美化される。

 

浜田が大学のために戦わず、二度目の徴兵忌避を行ったとしても、そこにはもう阿貴子と一緒の逃避行という甘美なオプションはついてこない。

 

阿貴子は、終戦を迎えた時自らの意思で金持ちの後妻になることを決め、健次との仲を清算する。老いた阿貴子の母の望みでもあったとはいえ、徴兵忌避者ではなくなった健次には、もう庇護欲がわかなくなったんじゃなかろうか。

 

東京の医者の息子である健次が浜田に戻れば、生活を保障してくれる「太い実家」もあれば、実家の縁故で安定した職も探せる。事実健次は浜田の家に戻ったあとは、実家の伝手で大学職員の職を得ている。

 

 徴兵忌避者として逃亡している健次には、阿貴子しかいない。阿貴子は健次のすべてを独り占めできるけれど、健次が「太い実家」との縁を取り戻せば、もう「阿貴子だけの健次」ではなくなる。

 

自分だけを見てくれる相手を望んでいればこそ盛り上がる愛情というものがありまして、阿貴子、そのタイプだったかも。終戦とともに運命の恋が終われば、あとは現世利益を追求して、金持ちの後妻を選ぶ彼女の行動も納得できる。

 

そして若くてカワイイ浜田の妻は、実は手癖の悪いいわくつきの女で、いわくつきだから浜田にあてがわれたと考えることもできる、鬱展開が待っていた。太い実家に戻ったからといって、ハッピーエンドははるかに遠い。なぜだ。

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(ブッシュドノエル型のチョコ。美味しゅうございました)

徴兵忌避者というマイノリティは、なぜ何度も試練を味わうのか

 『笹まくら』では、レールを一旦外れた者には、とことん冷たい日本社会が描かれる。レールを外れた浜田は、戦後とはいえレールに戻るべきではなかったんだ。

 

戦後から20年しか経ってないのに、徴兵忌避者という戦後の勇者は、日本社会が国として、組織として形を整えるのと歩調を合わせ、臆病者という評価に変わってしまう。

 

戦場のように異性にも食べ物にも飢えることなく、精神的にも追い詰められずに自分の時間を過ごせる。自分が生き残るために、誰かを蹴落とすこともない。自らの力で生計を立て、自分で自分を豊かにしている健次の生き方の方が、どう考えても豊かに思えてくるのは、戦後の豊かさを存分に享受しているからこその感想なんだ。

 

時代に先んじて個人としての幸せを追求できたのも、浜田が裕福だったから。豊かなものは、戦場の最前線に望んで立ったりしないのは、世界の常識。

 

浜田は、旧友の縁で新しい職場に移れるかもしれないし、どうにもならないかもしれない。

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若くてカワイイ妻が実は手癖の悪いいわくつきの女であると知って、呆然とするところで浜田の出番は終わる。その次に現われるのは、浜田が健次となって徴兵忌避者として旅立つシーンで、物語はそこで終る。

 

浜田は浜田として、またレールに戻るのか。それとも健次となって、ふたたびレールを外れた道を行くのか。その先は、読者の想像に委ねられている。

 

浜田はすでに40歳を過ぎ、もう健次のように若くはない。戦後の混沌した時代に健次の生き方、自らの力で生計を立て、自分で自分を豊かにする生き方を選んでいれば、また違った人生もあったものを。彼はみすみすレールに戻ってしまった。

 

もともとがインテリの知識階級層生まれで、生まれ育った階級の呪縛を乗り越えられなかったからと見ることもできる。

 

阿貴子と結婚していれば、階級の呪縛を越えて、まったく違う人生を送ることもできたかもしれないけれど、浜田が太い実家を頼った時点で阿貴子との仲は終わっている。

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(チョコが入っていた箱、キラキラで取っておきたいほどキレイなんだ)

笹まくらの時代は、遠くになりにけり

『笹まくら』の時代は、レールを一旦外れた者にはとことん冷たく、年齢が壁となった時代。その苦さに心底苦しめられた人たちが次に夢見るのは、レールを外れたことも年齢も問題としない世界だったんじゃないかな。

 

今の時代、もっとも強くて自由なのは、国や企業という組織を必要としない人。ピンで立って、自分で自分を豊かにしてる人は、所属する国や組織を自ら選ぶことができる。

 

傑出した才能持ちのスペシャリストは、集団を必要としないんだ。

 

国も組織もカンケーなく、どこにでも行ける、世界中どこでも生きていける日本人も増えて、本当に『笹まくら』の時代も遠くになりにけり。

 

レールを外れても生きていけるレールを敷いた人、敷こうとする人が築く新しい世界は、きっと旅先でのかりそめの恋に運命を委ねるような、脆いものじゃないはず。戦いは本来成長の源泉で、成長を望むものが起こすもの。成長しないもの、現状維持を望むものが起こしたところで、どうにもならない。

 

作品の発表から半世紀経って、日本も日本社会も、成熟したことをつくづく感じられた。地方都市に埋没していたら見えない景色や、考えないことがいっぱいで面白かった。フィクションがきっかけで、戦争が身近だった頃の日本に興味をもった人にもおススメ。

 

お休みなさーい。