クローズドなつもりのオープン・ノート

~生きるヨロコビ、地味に地道に綴ってます~

20世紀中国のセレブ姉妹を描いた『宋家の三姉妹』見た

今日は少し暖かくなって、最高気温3℃で最低気温は-2℃。外を出歩く方が好きだけど、極寒だと出歩く気にもなれず。Amazonビデオにお世話になる季節の到来さ。

 

細雪』に『海街ダイアリー』、古くは『若草物語』と、同時代を生きながらも違う生き方を選ぶ姉妹の姿は、映画や小説にしたくなるほど魅力的。日本史上には、茶々・初・江の浅井三姉妹が居るけれど、中国史上にも燦然と輝く三姉妹あり。

 

ひとりは富を愛し、ひとりは権力を愛し、ひとりは祖国を愛した

 

宋家三姉妹は、それぞれ孔子の子孫で大富豪・中国革命の父孫文・台湾初代総統蒋介石に嫁いでる。20世紀中国・台湾を代表するセレブ中のセレブ姉妹を描いた『宋家の三姉妹』を見た。

宋家の三姉妹(字幕版)
 

 革命勃発 → 国民党と共産党に分かれて中国国内が揉めに揉める → 日本とも開戦 と、激動の時代が舞台。セレブから見た歴史とはいえ、それぞれ配偶者が配偶者なものなので、家族の歴史がそのまま国の歴史に直結してる。

 

この手の近現代史は、事件が入り組んで全体像を把握するのが難しいけれど、映画というエンタメになれば、時系列もスッキリ。頭の整理にちょうどよし。

 

中国でも有数の富豪の家に生まれた宋家三姉妹、宋靄齢(あいれい)・慶齡(けいれい)・美齢(びれい)の三姉妹。新しい時代を誰よりも夢見た進歩的な父親は、子女の教育にも熱心で、娘たちをそれぞれアメリカの大学に進学させる。

 

娘相手とはいえ帝王学を教え込むのも熱心で、後継者には男女の別なしという当時としては相当進歩的な父親の姿が描かれる。が、しかし。

 

次女の慶齡が、父親の親友である孫文と恋に落ちると頑固おやじに早変わり。年の差愛いかーん!と結婚式にまで怒鳴り込んでくる始末。

 

でもさ、孫文と娘たちが親しくなるそもそもの原因は父親にあって、父親が革命家のパトロンなんかやってたからなのさ。

 

パパお金持ちで貧しい人に同情的 → 貧しさは諸悪の根源で、庶民の生活レベルを底上げするには革命が必要だ → そうだ革命家を支援しようで、孫文の熱心な後援者だった父親であっても、「家の中に革命はいらん!」と、怒り出す。

 

姉妹、家族を描いているからこそ、いかに進歩的で開明的であっても、家族観は古いままで、そこが父親世代の限界でもあると同時に見抜いてる。

 

自分の娘を、イギリスからインド独立運動の革命家ボースに嫁がせた、中村屋相馬愛蔵とはそこがちょっと違う。ちなみに孫文もボースも、ともに日本に亡命してきてた仲。

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

中村屋のボース―インド独立運動と近代日本のアジア主義

 

 政治亡命には厳しい現代日本と違って、日露戦争後の日本には色んな国からの亡命者(大抵は革命家)を受け入れていた、国際色豊かな時代があったと、これはどこかの司馬遼太郎で仕入れた知識。真偽は知らね。

 

限界ではあっても、次女の結婚式に「許さーん!!!」と怒鳴り込んでくる父親の姿は見もの。ついでに三姉妹なので、三回結婚式シーンが出てきて、いずれも見もの。

 

慶齡の日本での結婚式は、なんすかコレ???と首を傾げたくなる謎のお式だけど、後の二人の結婚式はたいへんゴージャス。

 

当時の中国を代表するセレブ婚だしな。。そりゃ豪華。特に三女の美齢と蒋介石の結婚式は世界にも配信されたそうで、これはwikiさんから仕入れた知識。

 

パパラッチの心配とは無縁な代わりに、もっと危険な目に遭うのが当時のセレブ。

 

結婚式にはドレスで挑み、中秋の名月も祝うけど、クリスチャンの宋家の暮らしは当時としては珍しい西洋風。クリスマスだって祝っちゃう。国民生活とはまったく乖離した、浮世離れした暮らしを送る一家が革命家のパトロンとか、なかなか皮肉。

 

基本的に宋家という富豪一家のお話なので、市民や国民の貧しい暮らしはチョロッとしか出てこない。精神的な苦労はそれなりにするけれど、生活費を稼ぐための苦労とは無縁の三姉妹。

 

三女美齢の結婚式で西太后由来の大粒真珠がハイヒールを飾る頃、次女の慶齡はソ連に逃れ、防寒のために靴に新聞を入れてる始末。

 

孫文の死後、宋家の中でただひとり共産主義者に同情的な慶齡は、家族の中でビミョーな立場に立たされる。妹婿の蒋介石は熱心な反共主義者で、慶齡と蔣介石も激しく対立する。

 

姻族、姉妹の配偶者が気に入らないことは往々にしてあるけれど、そこにプラス政治的対立も加わっちゃうからタイヘンさ。家族、それも姉妹のとりなしが無ければ、さっさと暗殺されてたかもしれないのが、慶齡という人。

 

それでも亡き夫孫文の遺志、あるいは理想を忘れなかった。理想をかなぐり捨てる理由がどこにもない、「宋家のお嬢様」だからできたことで、つくづく数奇な運命を生きた人。

 

孫文夫人として、共産主義者の看板となるのが慶齡なら、蒋介石夫人として、国民党の看板となるのが美齢。

 

短期政権に終わった民主党ファーストレディーと、長期政権となる共和党のファーストレディーが姉妹のようなもの。そこに、ドラマが生まれないはずがない。

 

大学受験の際に憶えた「国共合作」という単語の重み、初めて理解したかも。かもかも。

 

民主党ファーストレディーと共和党のファーストレディーが、ともに手を携え「国はひとつ」とやったら、そりゃ画期的。そこに宋家の長女で、孔子の子孫にして大財閥の孔祥熙夫人の靄齢も加わった三姉妹がにっこり一緒に微笑めば、財政面でも安心さ。日中戦争のさなかでも、最強のプロパガンダが完成する。

 

国共合作も実現して、三姉妹もにっこり一緒に微笑むけれど、そこでめでたしでは終わらないから、歴史も家族も不思議なもの。

 

最後まで互いを思いやりながら、それでも「一緒」にはなれなかった三姉妹。違う道を生きる姉妹の姿だから、ドラマになる。

 

ドラマにぴったりな素材の宋家三姉妹だけど、戦国時代ほど昔の人でもなく、『ダウントンアビー』のグランサム伯爵家のような架空の存在でもないせいか、日本ではあんまりエンタメになってないような。『ダウントンアビー』は12月から、待望のシーズン5が始まるよー。

 

ウォリス・シンプソンのように、ゴシップ誌の餌食になってもよさそうなところ、そうなってないところが不思議。中国・台湾での扱いは知らね。

 

1997年と、香港が中華人民共和国に返還された年に公開された古い映画。政治的イデオロギーは相容れなくとも、家族は家族とのメッセージ、大いに使い道があったかも。かもかも。

 

その当時の、「社会のとびきり上層」から見た歴史観が詰まってる。古い映画を見直す気になったのは、NHKNetflixが共同で東京裁判をテーマにしたドラマを作るから。

 

21世紀になって、世界配信される東京裁判をテーマにしたドラマは、一体どんな歴史観で貫かれるのか。違いが分かった方が、きっともっと楽しめる。

 

第二次大戦をテーマにした映画、日本でも色々あるけれど、『太陽』は一風変わっていて面白かった。史実と事実をもとに、想像力の翼をめいっぱい拡げると、奇妙奇天烈なお話ができるもんだなと感心した。本当かどうかよりも、本当かもしれないと思わせるところがミソさ。

太陽 (字幕版)

太陽 (字幕版)

 

 公開時には、色々物議をかもしたこの映画がAmazonビデオ入りしててびっくりした。オープンな世界、ステキね。

 

お休みなさーい。

塩は神様に祭られたためしなし

日本の神様は甘党なのか。

 

宮本常一の『塩の道』読んだ。講談社学術文庫の中の一章。他に“日本人と食べもの”、“暮らしの形と美”が収録されている。

塩の道 (講談社学術文庫)

塩の道 (講談社学術文庫)

 

 宮本常一(みやもとつねいち)は、低―い目線から日本の生活を眺めてきた民族学者。1981年没と、昭和の時代にすでにお亡くなりになっている昔の人。昔の人ではあるけれど、現地を訪れ現地の人に取材するフィールドワークの手法は、むしろ日々SNSで発信されるオモシロネタを読みなれた今と親和性高いかも。かもかも。

 

遠い昔の歴史を紐解いてはいるんだけど、目のつけどころは生活者目線。

 

語って聞かせたい相手もアッパー層以下を想定しているためか、学者さんが書いたものとはいえ読みやすい。短編小説並みの短さでもあって読みやすさも二乗。なのに、脳内へぇボタンが連打される内容が豊富でお得感があった。

 

塩も工業製品化されることになって、それまでの手作業による製塩法が時代遅れになろうとしていた頃。“塩のお弔い”としてまとめられた『日本塩業大系』の、とっかかりになればと書かれた文章。

 

土俵入り前にザッパーと景気よくまかれたり、商家の軒先で盛り塩となったりお清めに使われたり。「穢れ」を払うっぽい使われ方をする塩だけど、実は「霊性」を持たないと解き明かされる。

 

塩がないと、排出や循環がうまくいかずに身体を害す。だから塩は必要であっても、塩そのものはエネルギーにならず、エネルギーにならないものは霊性を持たずに、神様への供物リストには載れなかった。

 

エネルギーになるものはだいたい神様への供物になっていたというエピソードに、脳内へぇボタンが連打されまくり。

 

甘味はエネルギーありまくりだから、神様への供物リストでもシード権獲得なんだな、と納得する。そして、神様への供物リストから外れた塩が向かう先は、生活者のいる場所。

 

岩塩があるヨーロッパや、井戸を掘れば採掘できる中国と違って、日本では塩は作るしかなかった。だから、塩を作るための道具や製法が順次編み出されていった。

 

海水を煮詰めて作る塩田方式ならイメージもしやすいけれど、山から木を川に流して海に至らせそこで塩を焼いた「塩木」方式もあり。塩を求めて海へと下る木、絵面を想像したらロマンでしょ。

 

ロマンではあっても不便であれば、その手法は進化して、木=薪と塩を交換する、交換経済に進化する。著者もその変遷を「たいへん面白い」と評してるけれど、読んでるこっちも相当面白い。

 

交換経済が生まれれば、商材を売り歩く人も生まれて、塩の道が誕生する。

 

神様への供物になるものであれば、大手を振って歩けるような大通りを行くものだけど、塩が行く道は、もっとしょっぱい。

 

山越え、谷越え、道ともいえないような道を行くのが塩の道。

 

そのお供となるのは牛で、野宿を余儀なくされてのしょっぱい旅。時に馬宿・牛宿と呼ばれる茅葺の家に泊まることもあって、その宿の規模からその地方の商圏や商規模さえ推し量れるから、遺跡や遺構の語るものは馬鹿にできない。

 

神様への供物リストに載らなかったものは、文献やまとまった研究にもならず、捨て置かれる。

 

捨て置かれていたとはいえ、そこにあるのは壮大な歴史。道具や製塩法の発展、製塩の規模が大きくなるとともに発展する交換経済の輪や、塩売りから毒消し売りに職業替えする人たちの暮らしまで織り込んで、最後はイザベラ・バードにまでたどり着くからびっくりさ。

われわれの目の見えないところで大きな生産と文化の波が、そのような形で揺れ動き、その上層に、記憶に残っている今日の歴史があるというわけです。(本文より引用)

 記録されなかった記憶、消えてしまった道を辿るのは、大通りを行き交った、神様や天子様への供物がたどった道とは、違う道を掘り起こすこと。神様とも天子様とも違う暮らしを生きた人の暮らしを辿ること。

 

格差が大きくなって、神様や天子様にも等しい現代のビリオネアやミリオネアの暮らしにビタイチ興味も感心も持てない人も、記録さえされなかった人の暮らしになら興味が持てるかも。かもかも。

 

しかも現代では、神様や天子様にもなれない人の方が、数の上では圧倒的に多いのさ。塩の道を踏み分け歩んだ人に、シンパシーも感じやすい。面白かった。

塩の道ウオーキング

塩の道ウオーキング

 

 そして、とっても生活者に近くなった現代の塩の道をおススメしてくるアマゾンさんも、いい仕事してるじゃんと満足。

 

お休みなさーい。

中が空洞の焼菓子、一〇香(いっこうこう)は長崎銘菓

見た目は普通のおまんじゅう。トースターやフライパンで軽く温めるとより美味しくなるとか。確かに温めると、皮の食感もよりもっちりとなってウマウマ。

f:id:waltham70:20161116001832j:plain

ふたつに割ってみると、中はきれいな空洞。なーんもなし。

f:id:waltham70:20161116001828j:plain

f:id:waltham70:20161116001825j:plain

「中身なんにも入ってへんやんけ」というクレーム避けのためか、“中が空洞のカラクリ焼菓子です”との注意書きあり。カラクリという言葉、今どきあんまり使わないよねという予想通り、もとは江戸中期に中国の禅僧により伝えられた由緒あるお菓子だった。

 

餡を入れて焼いてるけれど、焼き上がったら空洞に仕上がるとか聞いたこともある。真偽は知らね。もしそれが本当なら、発明した人も販売に踏み切った人もスゴイ。

 

他店との差別化を図るために、クリーム抜きのシュークリームや、餡子抜きの大福餅にGOサインを出せるかというと、なかなか出せない。

 

そのまま食べても美味しいけど、思いついてバターを入れてみたらとっても美味。おススメ☆ あんこにバターやホイップをミックスしたような和洋折衷なお菓子、妙に美味しくて好きさ。

f:id:waltham70:20161116001821j:plain

というライトな文章は、ラインブログで書けとのことなのか。

 

はてなブログは「しっかり書きたい人のためのブログサービスです」と、ちゃんとただし書きあるしな。。いつの間にか。しっかり書いたら、長文書くなと石投げられそうな雰囲気も、私情ダダ漏れの文章書いたら斧持った人に襲われそうな雰囲気もかつてはあったのにね。長居してると、環境の変化がよくわかる。

 

しっかり書きたいことも多々あるから、時には2千字とか3千字とか書いてる。別に誰に頼まれたわけでもないけど、しっかりがっつり書きたいこともたまにはある。

 

中が空洞のお饅頭が、江戸の昔から現代に伝わってること。「なんだこりゃ」で廃れてしまってもおかしくなかったものが、現代までしぶとく生き残ってることに深―い感動を覚えたのさ、わたしゃ。

 

ついでに、伝わってるからといって特にありがたく押し頂くように頂戴するものではなく、バター入れちゃえ☆ で、好きにアレンジできるところもいい。えもいわれぬ感動さえ覚えるね。☆は、こういうのが嫌いな人へのサービスさ。

 

えもいわれぬだって、きれいな景色を見た時以外にも使ったところでどうってことない。だって単なる個人ブログだよ、これ。

 

日々客観的に見れば相当しょーもないことに一喜一憂して、ビビッドに感動してるのも、暇だから。感受性をすり潰すほど何かに没頭してるわけではないから、他人から見たらしょーもないことでも愉快になれる。この、しょーもないことでも愉快になれてご機嫌に過ごせるためだったら、多少の犠牲は厭わない主義。ってか金銭面では確実に損してる。でも、いいのさ。

 

個人ブログだから、書きたかった。何者でもない者でも、思考の軌跡を残せるところが気に入ってる。個人ブログ以外では、あんまり書く気もしない。褒められながら書くのは、そりゃ気持ちがよかろうとは思うけどさ。

 

思うさま、オリジナルな文章が書けるから個人ブログが好き。思うさまやオリジナルは、要は無手勝流だから、一銭にもならないのは百も承知。むしろ、お金に換わる方がびっくりする。

 

どこにでもルールはあって、ルールから外れたものには値がつかないのは市場のルール。網の目のように張り巡らされた厳しいルールやレギュレーションから外れることなく、それでも自由闊達に動き回ってるように見える文章にこそ、いっちゃん高値がつくのも納得してる。

 

自分ではテケトーな文章を書いてるけれど、読むのはむしろ隙の無い文章の方が好き。細部にいたるまで隙のない言葉使い、無駄のない構成で、美しいとしか形容しようのない文章を、かつて見掛けたことがあった。内容はもううろ覚えだけど、ただその隙のない美しさだけはよく覚えてる。

 

そういう文章こそブックマークすべきだったんだけど、何となくしそびれて、今に至るまで後悔してる。

 

無料ブログで読めるような文章じゃないから、今頃その文章を書いた人は、きっと別の次元で活躍されてるはず。どこにも癖や個性は感じられないんだけど、癖や個性がないことこそ個性になっていた。美しいとか端正とか、文章にも個性があるけれど、個性は長文にこそ発揮されるから、個性的な文章に出会いたかったらほんとは長文読むべきなのよね。

 

でもそこで好みの文章に出会うには、日本語にこだわりがあり過ぎるから困ったもの。

 

内容は二の次で、ただその瞬間の文字による芸が際立つのは、やっぱりブログ。適度に混ざった話し言葉が、よりライブっぽい。ブログに芸を求めてもしょうがないんだけど、はてな育ちだからしょうがない。

 

どこで書いても一緒なら、慣れたシステムのところで書くのが一番。美文に出逢いたかったら、オープン直後に限る。Proにしてるのは、広告を表示させたくないから。あぁ今日も無駄なことを書いて満足。

 

お休みなさーい。

マグノリアの花たちのブラックアメリカンバージョン『スティール・マグノリア』見た

マグノリアの花たち』という1989年公開の古―い映画がありまして。1989年だから、昭和64年にして平成元年。あぁ昭和が遠い。。

 『プリティ・ウーマン』でブレイクする前のジュリア・ロバーツが出てる。ジュリア・ロバーツという大スターを生んだ、彼女にとってもハリウッドにとっても、エポックメイキングな作品が、『マグノリアの花たち』だと勝手に思ってる。

 

単にエポックメイキングと使ってみたかっただけさ。オリジナルは共演者も豪華。

 

サリー・フィールドフォレスト・ガンプ)、ドリー・パートン(有名な歌手だってさ)、シャーリー・マクレーン愛と追憶の日々)、ダリル・ハンナ(スプラッシュ)、オリンピア・デュカキス(月の輝く夜に)と、そのうち午前10時の映画祭で上映するような、超有名作に主演したビッグネームの女優がズラリ。

 

その『マグノリアの花たち』を、クィーン・ラティファ主演ですべてのキャストを黒人に置き換えた『スティール・マグノリア』は、2012年にリメイクされたテレビ映画。

 アメリカ南部を舞台に、年代の異なる女性たちの強い絆を描いた感動作で、オリジナルに忠実にリメイクされている。肌の色は異なっていても、悲喜こもごもは一緒。嬉しいや悲しいに人種の壁なしということを、忠実なリメイクを通じて伝えてくる。

 

ついでに1989年から2012年と、20数年間のアメリカ社会の変化も見て取れるからいい。

 

舞台は、ルイジアナ州の架空の街チンカンピン。結婚式が行われようとしている家の主婦マリンと、その美しい娘シェルビーが物語の中心。彼女たちは、トルーヴィが切り盛りする美容院を憩いの場としていて、そこにはお金持ちだけど意地悪なウィザーや、上品な未亡人のクレリーもやってくる。

 

ウィザーとクレリーは、マリンよりもやや年上。シェルビーからすれば伯母さんポジション。そこにトルーヴィの美容院で働く、シェルビーと同じような年代のアネルも加わった6人の女性が、励まし合い支え合いながら生きる姿を描いている。

 

シェルビーには糖尿病という持病があって、そのせいもあってマリンは、過保護ともいえるほどシェルビーを大事にしてきた。二人三脚で生きてきた母娘が、愛娘を手放すところから物語は始まる。

 

結婚式、クリスマス、そしてハロウィンと、四季折々の行事が挟み込まれるのが特徴。オリジナルにはチンカンピンの街オリジナルのお祭りシーンもあって、チンカンピンがいかに美しく住民に愛される街かを伝えていたんだけど、そこはカット。いいシーンなのになぁ、残念!

 

オリジナルと比べると、女性のファッションの移り変わりや、それぞれのイベントの移り変わりもわかって面白い。いちばん変わったのは、多分音楽。音楽も、アフリカン・アメリカン好みになっている。

 

結婚式の“アルマジロのケーキ”はよりフォトジェニックになって、とってもインスタ映えする出来。ウィザーの愛犬も、黒毛になっていて芸が細かい。

 

マリンは黒人であってもプール備え付けのステキなお家を持ち、かつて白人がそうしたように、豪華な結婚披露宴パーティーを開いてる。もちろんそうなれない人も居て、トルーヴィの夫は、仕事がうまくいってない。

 

持病のあるシェルビーにとって、仕事を続けること・子供をもつことでさえハードワーク。普通の人にとっては何でもないことでも、何かあったら大変と、マリンの過保護は結婚後も続く。

 

マリンもトルーヴィもそしてアネルにシェルビーも。思い煩うことがあっても、皆の前では出さないようにしてる。できるだけ。気丈に振る舞っているのがわかっている時は、周囲も調子を合わせて陽気に騒ぎ、慰めが必要な時には、遠慮なくハグしてる。優しいんだ。

 

結婚式にクリスマスに誕生日パーティと、イベントを中心に描かれるのは、イベントは本来家族で祝うものだったから。楽しくイベントを祝えるのは、幸せな証拠で幸せな家族だったから。

 

いつもイベントに呼ばれる人も、血縁ではなくとも家族のようなもの。

 

家族に差す暗い影は、家族で跳ね返すとばかりに、苦難の時も家族で乗り越えていく。パートナー優先で子供優先で、家族のような友人優先で、それ以外の人は後回し。

 

幸せにする順番を間違えない人は、生き方も間違えない。

 

間違えないから、苦難の時にも支えてくれる人に困らない。公人だったら公私混同やお友達人事はまずいけど、市井の人だからそれでよし。ラストには大いなる悲劇が待っているんだけど、「涙はもうじゅうぶんでしょ」という慰め方が、ステキ過ぎて泣けてくる。

 

マグノリアは、春先に咲く木蓮のことかと思ってたけど、初夏に咲く泰山木(タイサンボク)のこともマグノリアと呼ぶんだってさ。芳香とともに、白く大きな花を咲かせる、たいへん頑丈そうな木。

 

スティール・マグノリアは、「鋼のように強い」はずの男たちが、悲劇に耐え切れず、逃げ出した後にも力強く咲く花のこと。

 

泣いて笑って、時にはいがみ合って。それでも、季節がめぐるたびにちゃんと花開く。

 

オリジナルに忠実に再現されているけれど、人生賛歌としては、オリジナルの方が美しく感じてしまう。オリジナルに比べると30分ほど短いので、その分カットされてるところがあるからしょうがない。オリジナルではダリル・ハンナが演じていたアネルのパートは、結構カットされていた。これも残念。

残念だけど、アネルやトルーヴィの夫など、オリジナルほど上手に回収されなかった人生は、20年経ったアメリカ社会の変化を織り込んでるのかも。かもかも。

 

オリジナルのイースターエッグハンティングのシーンが好きだったんだけど、そこもカット。そもそもイースターエッグハンティングそのものが、今やアメリカでもすたれ気味なのかと、見比べることで深掘りしたくなる要素が次々出てきたよ。。

 

オリジナルでマリンを演じていたサリー・フィールドは、後に『フォレスト・ガンプ』でガンプの母親を演じてる。『フォレスト・ガンプ』は、フォレストという男性に託して振り返った、アメリカの近現代史の側面もある作品。

 そのうちクィーン・ラティファをやっぱり母親役にして、アフリカン・アメリカンバージョンの『フォレスト・ガンプ』が作られたりして。その際には劇場公開でもテレビ映画でもなく、VODやSVODになるんだろうなと、これも勝手に予測してる。

 

当たりそうにもないことイロイロ考えるの、楽しいっすよ。

 

お休みなさーい。

豆腐を煮れば、煮やっこ。冷たいのは冷ややっこ。

クリーム豆腐をそのうち試してみようと思いながら、実際に作ったのは「煮やっこ」の方。冷ややっこほどメジャーじゃない、豆腐料理。美味しいのに、なんでや。煮たらダメなのか。

 

湯豆腐よりもっとおかずっぽい。ってかばっちりおかずになる。ダイエット中じゃあるまいし、湯豆腐じゃ物足りない。ダイエットした方がいいのは、よくわかってるんだけどさ。

 煮やっこの【材料】

  • 絹ごしとうふ 1丁(300g)
  • けずりかつお 5g 
  • しょうゆ 大さじ2 
  • 砂糖・酒 各大さじ1 
  • 水 100cc 
  • 卵 1~2個 
  • ねぎ 適量(好きなだけ)

f:id:waltham70:20161112195507j:plain

豆腐は食べやすい大きさにカット。ねぎも食べやすい大きさにカット。万能ねぎの場合は、3~4㎝の長さにカットしたもので可。

 

土鍋だとより雰囲気が出るけれど、普通のステンレスの鍋を使用。IH対応のステキ土鍋が見つかるまでは、土鍋なし生活でいいのさ。

f:id:waltham70:20161112195410j:plain

けずりかつおを鍋底に敷いてとうふを並べ、しょうゆ・砂糖・酒・水を加えて中火で煮る。今回使った豆腐は300gよりかなり少な目。主菜にする場合はビッグな方がいいけれど、副菜にするつもりなので、小さ目を使用。

f:id:waltham70:20161112195844j:plain

華のないおかずなので、代わりに使い道のない紅葉の写真を意味なく挟み込み。きれいねー。雪なんか降らずに、このまま時が止まってしまえばよかったのに。。

f:id:waltham70:20161112195417j:plain

沸騰したら5分ほど煮て、ねぎを投入。仕上げに溶き卵を流し入れ、好みの固さで火を止める。

f:id:waltham70:20161112195447j:plain

見栄えのしない茶色いおかずなので、ビジュアル担当としてまたしても使い道のない紅葉の写真を使う。きれいねー。

f:id:waltham70:20161112195514j:plain

煮やっこ完成。

f:id:waltham70:20161112195404j:plain

温かい出汁しょうゆ味で、ご飯との相性よし。サンドイッチとかハンバーガーとか、ドーナッツとかステーキとかピザとか。まずくはないけど、ザ・大味な食事が続いた後にこの手のなんでもないおかず系和食を食べると、五臓六腑が喜ぶ。

 

ソイソースの国の人だもの。しょうゆ・ねぎ・卵とじの組合せに白いご飯だと、細胞が生き生きピチピチ張り切る感じ。

 

大根と紫蘇のない国で生きてくのもイヤなら、卵とじのない世界もダメ。サバイバル出来る気がしない。肉肉しい食事が続くと胃もたれして、豆腐やだしに卵とじで元気になるんだから、我ながら燃費いい。

 

食事が口に合わない国にも行かなきゃだから、グルメじゃない方がグローバルでも生きやすい。お高い食事はどこも美味なはずだから、リッチだったらグローバルでもローカルでも無問題。最強なのは何でも自分で作れる人で、小麦粉さえあれば、パンでも麺でも点心でもおやきでも作れるのさ。そういやお好み焼も粉もんだったね。

f:id:waltham70:20161112195500j:plain

(意味なくデザートの写真。美味しそうねー、ってか美味しかった★)

ジブリが、丸紅グループの企業イメージ映像を作ってたとは知らなんだ。二次元のキャラクターにスキャンダルなしで、差し替えの心配もないから安心だね。

 

すぐできるおかず

すぐできるおかず

 

 こちらに記載されていたレシピ。どれも作りやすいものが揃ってる。

お休みなさーい。

 

waltham7002.hatenadiary.jp

waltham7002.hatenadiary.jp

waltham7002.hatenadiary.jp

 

コメディエンヌとしても貫禄じゅうぶんなクィーン・ラティファ

日米で、その知名度に大きな差がある女優の筆頭、クィーン・ラティファ。勝手にそう思ってる。もともとは歌手なんだけど、コメディエンヌとしても才能あり。

 

180㎝近い長身で、横幅もたっぷり。よーく見ると美人で整った顔立ちなんだけど、よく見ないとその美貌にも気づけない。でも好きさ。ビッグ・マミーな雰囲気濃厚で、包容力たっぷりなところが魅力。

デパートの調理器具売り場で働く、ごく平凡な女性ジョージアは、死の告知を受け悲しみのどん底に突き落とされた。しかし逆に最後の3週間を好きなことをして思いっきり生きてやろうと決意。

会社を辞め、銀行から全財産を下ろし夢だったチェコのリゾート地・カルロヴィ・ヴァリへと向かうのであった。

Amazonビデオ作品紹介より引用)

 カルロヴィ・ヴァリ、日本でもスパやエステの店舗名としてお馴染み。チェコにあるとは知らなんだ。

『ラスト・ホリディ』で初めて彼女を知った。劇場未公開の2006年の作品。ジェラール・ドパルデューも出演してるコメディだけど、多分知名度はそんなに高くない。

 ヒロインも、ヒロインが思いを寄せる人も黒人。冴えない日常を送っていた黒人ヒロインが、白人エスタブリッシュメントの巣窟ともいえる高級リゾートで、セレブとして扱われるお話。ある種のシンデレラストーリーでもあって、最後はハッピーハッピーで大団円を迎える。

 

余命いくばくもないと知った女性が、我慢を辞めて、したいように振る舞う姿が、同じように我慢を強いられてる人々に笑顔をもたらしてくれる。

 

コメディなんで、白人エスタブリッシュメントの悪辣さや嫌ったらしさを、かなり誇張気味にコケにしてる。

 

舌噛んで死んじゃいたいような極悪非道な出来事も、フィクションでコメディにしたら、笑いで迎えられる。

 

我慢を強いられてる人たちの鬱憤は、そのまま直視したらシャレにならないくらい酷くて救いもないから、適度に笑いを取るしかしょうがないんだ。

 

フィクションの中でなら、着飾った美男美女の白人セレブに説教かますのも、鼻を明かすのも自由。白人セレブの御用達がステータスな人たちの頬を、札束で引っ叩いて思い通りにするのも、きっと気持ちがいい。

 

地味で平凡でついでに黒人の女性が、お金の力でゴージャスに変身する姿が見もの。ドレスアップして堂々としていれば、誰もが彼女に一目置くようになる。

 

ジュリア・ロバーツは、金持ちのパトロンの力を借りて、娼婦から淑女に変身した。『ラスト・ホリディ』では、自分で働いて貯めたお金と、親からの大事な遺産を売っぱらって、セレブに変身する。あんたたち白人女とは違うのよ!との・キ・モ・チ。どこかに潜んでるよね、きっと。

 

ストーリーは割と単純で、原型は別にありそうなお話。目新しいのは、徹頭徹尾、主役になりそうにない人を主役に据えたこと。

 

ヒロインは黒人で、思いを寄せる人も黒人。つまり、名誉白人の仲間入りをめざして白人社会に憧れるような人じゃない。もともとは、デパートに勤務する優秀な販売員だけど、職場そのものが崖っぷち。ついでに余命いくばくもなくて自分の人生も崖っぷち。

 

親からの遺産があるといっても、大した額じゃない。車もなければ庭もない、ささやかな集合住宅でひとり住まい。

 

フィクションでしか救ってくれないもの、そんな人。

 

最低限の福祉はあっても、幸せやハッピーとは遠い状態でしかきっと生きられない。だから、フィクションの中ではとびきりハッピーになる彼女が描かれる。

 

人生でいつかは実現したい、“憧れリスト”をサクサクと消化してゆく主人公。いつかは行ってみたい場所や、いつかは味わってみたいご馳走を、スクラップにしたのが、“憧れリスト”。

 

人生にやり残したこと、未練たっぷりなのがよくわかる。ついでに、暇もお金も持て余してる人じゃないから、コツコツ夢の実現に近づくしかなかったこともよくわかる。旅行でもレストランでも、いつでも好きな所に行ける人は、コツコツ切り抜きなんかしない。

 

コツコツと、“いつか”を夢見てたヒロイン。“いつか”は突然断ち切られ、それまでとはまったく違う生活に踏み出してゆく。余命がわかっていたら、我慢してもしょうがない。我慢しないヒロインの姿は、コツコツを続けざるを得ない、大勢の我慢を強いられる人への贈り物。

 

原型は別にありそうで、主役が黒人女性でなかったら目新しさにも乏しいストーリー。だけど、いつまでも延々と続きそうな我慢を強いられ続けてる誰かを、徹底的に励まそう・勇気づけようという思想に裏打ちされている。だから好き。

 

何の小説だったか、映画だったか。もう忘れちゃったけど、黒人の女性医師に向かって、あんたは黒人でしかも女性だから、ここまで来るのに相当大変だったろう。しかも、相当な地位を得てもなお、黒人の女性ということで侮られ続けるから大変だ、と白人男性に語らせてるシーンがあった。

 

出自からの脱出に成功し、それまでとは違う生活を手に入れても、どこまでも出自が邪魔をする状況を、端的に表してるからよく覚えてる。

 

『ラスト・ホリディ』は、黒人のための、黒人による、黒人の映画。どこまで行っても自分たちを受け入れないのなら、自分たちが心地よくなれる世界を目指したって不思議じゃない。

 

ヒロインには料理というささやかな武器があって、そのおかげでジェラール・ドパルデュー演じる名シェフと友人になる。結局はそれが転機にも繋がって、最後はハッピーハッピーで爽快な大団円へとつながってゆく。

 

コツコツ貯めこんでる時のヒロインは、生きる喜びに乏しくて、景気よくお金を使い果たそうとした途端、生き生きとしてくる。

 

相対的に持たざる人にとって、消費はやっぱり喜びなんだ。モノでもコト、体験でも増える方が嬉しくて、減って嬉しいのは借金くらいのものさ。

 

仮想敵はきっと、ジュリア・ロバーツジュリア・ロバーツ的なものなんじゃないかと思った、『スティール・マグノリア』もよかった。コメディエンヌに終わらない、シリクィーン・ラティファのシリアスな演技が楽しめた。

 お休みなさーい。

葉っぱに雪

紅葉も終わり切らぬうちに、盛大に降った雪。f:id:waltham70:20161107232630j:plain

緑と白のコントラストが、痛々しくて寒々しい。ってか寒いんだ、まじで。

 

寒いだけでなく、融け切らない雪が歩道にも残されている。にもかかわらず、ヒールのある靴で歩いたから、つま先から凍えそう。ついでに滑って転びそう。まだ11月に入ったばっかりなんだから、モコモコの冬用ブーツは意地でも履きたくなかっただけさ。

f:id:waltham70:20161107232517j:plain

(葉っぱはまだこんなに青々としてるのさ。日当たりの悪い場所では)

 誰に張ってる意地かもわからないけれど、イヤなものはイヤ。ままならないことがどっさりある世の中で渡る世間なんだから、好き嫌いだけは、最後まで手放さない。

 

流行り廃りとは極力無縁の生活を送っているけれど、街を歩けば、お店をのぞけば、なんとなく流行りは伝わってくる。

 

女性のファッションで言えば、オーバーサイズ。ゆったりとしたトップスに、ゆったりとしたアウター。メリハリとかどこにも感じられないコクーンスタイルで、目につくのはアースカラーガウチョパンツは引き続き人気で、スカート丈は長くなった。

f:id:waltham70:20161107232510j:plain

布をたっぷり使った方が、リッチでラグジュアリーなのかと思うくらい、布に覆われてる、あるいはくるまれてる部分が多くて重そう。

 

プラダを着た悪魔なら、流行りに込められた隠しメッセージも、あるいはすっかりお見通しか。かといって手品の種あかしには、ナルホド以外の感想もないんだけどね。

 

ハロウィンでクリスマスでお正月で。なんでそんなに慌ただしいんだと、まだカボチャも片付けてない。シーズンごとのイベントでさえ、追いかけるのにお疲れ。いわんやそれ以上の流行りはイラネ、ノーサンキュー。

f:id:waltham70:20160929231430j:plain

犬の時間を生きる人の慌ただしさに、なんでそうじゃない人間まで合わせなきゃいけないのか。知ったこっちゃない。

 

のんびり、ゆっくり。年末に向けて、粛々と断捨離を進めていくだけさ。

 

お休みなさーい。